山水堂
キイロニミセラレテ
黄色に魅せられて
第一章 黄色い猫から落ちる
あやめは、とにかく黄色いものが好きでした。それはもう、食べ物であれ、飲み物であれ、黄色いから好きなのか、好きだから黄色いのかがわからないほど好きだったのです。
そして、そのことは、乗り物であっても例外ではなかったのです。「もし、この世に黄色がなかったら」と、あやめは、黄色いブランコをこぎながら呟きました。
「黄色がなかったら」と言いながらも、格別に眠くなってしまっていた自分に気づきました。
「あらやだ、ブランコをこぎながら寝てしまうなんて、何てけったいな事でしょう」と、誰もいない公園中に遠慮して言いましたが、「けったいな」という言葉が実に良い表現だと思ったので、続く言葉が、とても大きい声になってしまいました。
「何てけったいな事が、あったとしても、そうね、黄色いブランコだから許されると思うの」
そう言いながら、あやめは、地面を蹴ってますます揺れを激しくしていたのでした。
「何て、世界が速く動くことでしょう。あまりに速いので、なんだか黄色く見えるような気がするわ」
第二章 私を呼ばないで、私があなたを呼ぶから
実際、あやめの周りの景色は、どんどん、黄色に染まっていって、やがて、本当に辺りが黄色になってしまったのです。不思議に思って、ブランコを止めようとしましたが、あやめは自分の身体がブランコから降りているのに気がつきました。
「ブランコから落ちたのかしら」と、あやめは首を傾げました。「でも、もし落ちたのなら、どすんとお尻を打たないといけないはずだわ。だったら、きっとブランコが私から落ちたんだわ」
あやめは、そう思って辺りを見回し始めましたが、黄色ばかりの世界には、ブランコの板らしきものが落ちていませんでした。
代わりに見つけたのは、なにやら、停留所のような標識が一本と、それを横切るように連なる石畳のような道だけでした。道は、とにかく左から続いていて、とにかく右に伸びているので、一体全体何処から来て、何処へ行く道なのかがわかりません。見える限りの一本道なので、辿っていけば迷うことはないはずです。しかし、どちらに行けば良いというのでしょう。
「もし、どちらかに進むとしましょう。帰り道を目指しているのに、行き道へと進んでしまったら、間違えに気づいて折り返したら、かなりの時間を無駄にしてしまうでしょうね」(単純に考えれば、三倍の労力の無駄になってしまうのでしょう)
「でも、どっちにも行かないとしたら、どれだけの無駄となるのかしら」あやめは首をかしげながら標識を見ました。標識にはこのように書いてありました。
「私を呼ばないで、私があなたを呼ぶから」
「まあ、何てへんてこりんな駅の名前かしら」とあやめは声をあげたあと、意味をかみ締めるように呟きました。「そもそも、『私』って誰かしら。『あなた』は私のことかもしれないけれど」
「私が、誰だって言いたいのかい」と、突然声がしました。
「まあ、どの黄色が喋ったのかしら、見当もつかないわ」
「おっと、待った。目を凝らしちゃいけない。俺を見たいなら目をそむける事だ」
あやめは、言われたとおりにひょいと首を傾けて目をそむけると、目の前の道の中央に大きな輪郭が浮かび上がりました。
「あら、不思議」
「不思議なものかい。ここでは『動かざるもの見るべからず』さ」
「せわしいのね。でも、私は動くのが好きよ」と言いながら、あやめはぴょんぴょんと飛び跳ねると、目の前にいる輪郭の正体がわかりました。そこには、象のようにとても大きな猫が立っていました。
「あら、あなたが喋ったのかしら」
こんなに大きな猫が喋るのにびっくりしたので、ぴょんぴょんと飛びながらも後ずさりしました。
「もし、俺が喋らなかったとしたら、俺以外の誰かが喋ったことになるのだろうね」と言って、大きな猫が何処かへ行こうと動き始めたので、あやめは慌ててそれを制しました。(もし、ここでこの猫を見失ったら、一体全体次に話ができる機会がいつ訪れるのかがわからないのです)
「あの」とあやめはなるべく失礼にならないように、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらも質問しました。「あなたの名前は何というのかしら」
「俺の名前は、俺にはわからない。俺以外が知るのみだ」
「じゃあ、『俺以外』さんに聞けばよいのですね」
「ああ、そうしてくれ」と言い、再び、何処かに行こうとするので、あやめは話を畳み掛けました。(もし、この世界へ来てばかりでなかったら、そして、この猫の横に「俺以外」がいたのなら、すぐにでもこの猫との話をやめてしまったことでしょう)
「あなたは、動いていないように見えるけど、私を見えるのですか」
「君が動いているから、俺を見えるのさ」
「でも、あなたが初めに私に声をかけたのですが」
「そのときには、俺が動いていたのさ」と言い、三たび、何処かに行こうとするのをあやめはもう、止めませんでした。
猫は、見た目の大きさからは想像のできないほどの素早さで、石畳を走り抜けていきました。(その猫は一駆で石畳の四つ分を進んでいたのです)
「何て速いのかしら」とあやめはため息交じりに言いました。「でも、いなくなって清々した気持ちのこみ上げてくるよりは、若干、そう、若干遅かったようだわ」
第三章 不規則な石畳
あやめは、ぽつんと一人で取り残されていました。でも、ここに来た当初よりはそれほど寂しくありませんでした。
「少なくとも、会話ができる『へんてこりん』がいるのだもの。また、会話する機会が無いなんてことは、無いはずだわ。でも、彼だって、もう少し、『へんてこりん』でなかったさえすれば、ね」
そういって、気を取り直して、あやめは、この標識の下で待つことにしました。「もし、次に会うのも、彼と同じだけの『へんてこりん』だったとしたら、果たして寂しい思いがしていたときよりも好転しているのかしら」
しかし、そのような心配をしながら、二分待っても、その二倍の時間を待っても、何もそれらしき乗り物があやめの待つ停留所には来ません。「まあ、何て役に立たない停留所なのかしら」とあやめはとうとう我慢の限界を超えました。
「何時間経っても来ない停留所だったら、無いほうがましかもしれないわ」
そう言って、とうとうあやめは石畳の道を歩くことにしました。(しかし、あやめが歩き出したのは正しかったのです。このまま止まっていれば、見えるものも見えなかったはずなのですから)
あやめが、歩き出したのは停留所から向かって右方向でした。理由は簡単です。先ほどの大きな猫が右側へと走っていったからです。
道は、とても不思議な形をしていました。あやめが乗ると、ふんわかとやわらかい弾力があり、まるで、潰れない風船に乗っているかのようです。
「まあ、何て素敵な道かしら。もしこんな素敵な道が普段の道だったら、歩くのがとても楽しくてしょうがないことでしょうね」
骨のように連なる長方形の石畳の一つ一つは、どれもほとんど同じ大きさをしていました。ただ、不思議なことに黄色で塗りつぶされているものと透明なものと、二つの種類があります。それらが交互に連なっているわけでもなく、まるで、何も規則性が無いように配置されているのです。
「この道を作った人は、何て『へんてこりん』なのかしら。もし私だったら、そうね。交互にして縞状に配置するわ。きっとその方が素敵ですもの」
そう言い終わるか否かのうちに、大きな猫が、前に立って話しかけてきました。
「はあい、君、君」
一番初めにあった猫と姿かたちが瓜二つでしたが、馴れ馴れしい態度なので、先ほどとは違う猫だということがはっきりしていました。
「なにかしら」とあやめは、そっけなくそっぽを向きながら、歩くのをやめませんでした。「ねえ、ねえ、君は何処へ行くの。ねえ、ねえ」
「きっと、あなたの知っているところよ」(でも、私にとっては知らないところだけど。と言おうとしましたが、なめられてはいけないと思い、口をつぐみました)
「なんだい、つまらないなあ。でも、君の知らないところになら、何処へでも連れてってあげるよ。ねえ、ねえ」
「あら残念、その必要は無いわ。だって、ここも十分私の知らないところだから」
「ふうん、じゃあ、何処に行きたいの」
「そうね。残念ながら、行きたいところがわからないの」(だって、行く場所の地名さえ指定できないんだもの)
「じゃあ、迷子なんだね、ふうん」
「そうとも言えるけど、そうでないとも言えるかしら」(だって、誰かからはぐれているわけでもないんだもの)
「じゃあ、ねえ、君。僕は一体全体どうしたらいいんだい」
「きっと、そのまま通り過ぎるのがいいんじゃないかしら」
猫は、妙案だと言うばかりにこくりと頷きました。
「うん、そうするよ。じゃあ、君、君、またね」
「ええ、ごきげんよう」
大きな猫が高速で走り去って行く姿を見届けると、あやめは二つの理由にびっくりして我が目を疑いました。
一つは、さっきの「へんてこりん」な猫とは違い、今度の猫は、石畳を丁寧に一つずつ駆けているにも関わらず、たいそう足が速かったからです。(四つの石畳を飛ばして走る猫と、一つずつ踏んで走ってゆく猫が、同じ速さで進んでゆくとしたら、どちらが能力が高いといえるでしょうか)
そしてもう一つの理由は、猫の踏んでいった石畳が、時折光を発して、透明のものが黄色に、黄色のものが透明に反転しているのです。
「まあ、何て素敵なことができるのかしら」あやめは、とても喜びました。で、大急ぎで、黄色のものが透明になった石畳に駆け寄りました。真上でじっと見つめましたが、あたかも、今まで透明であったかのように落ち着いています。
「まあ、何て素敵なことができるのかしら」と、あやめは先ほどと同じ抑揚で呟きました。
石畳は、あやめがぴょんぴょんと飛び跳ねても、ぴくりとも反応しません。試しに、全力で走り抜けてみましたが、無駄でした。仕舞いには、叩いたり、蹴ったり、地団太を踏んだりしてみましたが、やはり、結果は同じでした。
「きっと、性格がひねくれていないと、できないのだわ。こんなにまっすぐ伸びている道だというのに」
そういった折に、大きな猫があやめの頭上を飛び越えて通り過ぎていきました。今度の猫も、上手にところどころの道の石畳を反転させて進んで行きました。(今度のは、石畳を二つずつ進んでいきました)
「もし、ちょっと前の私だったら、くやしがったかもしれないわ」と、あやめは、ふと、思いついたことににんまりとして、少し前の自分に難癖をつけました。
「でも、今の私には」と、あやめは思案しながら、独り言を続けました。「今の私には、とっておきの方法があるのだから、くやしくないの」
そういうと、あやめは、今まで歩いていた道の真後ろを向いて、後ろ向きに進みました。(つまり、進んでゆく方向は先ほどと一緒です)
そうして、しばらく進んでいると、再び大きな猫が、あやめの方に向かって来るのがわかりました。で、ぐんぐんと近づいて追い越される瞬間を見計らって、あやめは、えい、とがむしゃらにつかまりました。
すると、実にうまく大きな尻尾を握ることができました。更に不思議なことに、あまりに速く走っているのに、振り落とされそうな気がしません。むしろ、綱引きのようにぐいぐいと尻尾を手繰り寄せると、うまく大きな猫の背中に乗ることができたのです。
あやめは、猫の背から見る道がとても美しい風景を刻んでいるのに驚きました。道が、大海を押し広げる船のように美しい黄色い光の波を掻き分けています。しかも、先ほどまで黄色ばかりだった辺りの様子が、実にくっきりと見えるのです。
「あら、あんなところに赤い屋根の家が見えるわ」
第四章 屋根の上の不動亀
「きっと、かなり遠いのにあまりにはっきり見えすぎるのよ。ただでさえ、赤い屋根で目立つというのに」一向にその家に辿り着かないので、あやめは、暫く走っている猫の背中の上で、じれったく思いました。
どうやら、速く走るほど、くっきりと世界が見えるようです。ただ、家にたどり着かないのは、そればかりの理由でもありませんでした。猫がぐんぐんと突き進んで行くにつれ、家は、ぐんぐんと大きくなっていくのです。そして、あやめが普段見慣れている家の大きさよりも更に大きくなりましたが、まだ、辿りつく様子ではありません。
「目の錯覚かしら」と、あやめは首を傾げました。「でも、家があるのなら、誰かが住んでいるはずだわ」
そう思って、あやめは大きな猫の背から飛び降りました。(とても大胆なことですが、あやめは飛び乗ることが「乗る方法」なら、飛び降りることが「降りる方法」だと思ったのです)
勢いよく、石畳の上に降りると、ふわりと吸収されるように弓なりになって、石つぶてのように弾かれて、空へと舞い上がりました。
どすんと、尻餅をついたので、あやめは何処に落ちたのか暫くわかりませんでした。が、辺りを見回すと、真っ直ぐに連なっている道が彼方にうっすらと見えているのがわかりました。
「まあ、何て高いところかしら。あんなところから飛んできたなんて。きっと、ここは大きな家の屋根の上に違いないわ」
そう思うと、あやめは、途端にこの屋根が傾いているような気がしました。実際、屋根は何処かの工場のように山なりにでこぼことしているのです。その感覚に従えば、屋根にしがみついていなければいけないような気がしましたが、あやめは、ひょいと立ち上がることができました。
「お嬢ちゃん、何をそんなに困っているんだい」と、声がしましたので、振り返るとそこには、とても小さな緑色の亀が眠っているように座っていました。
「あら、私が動いていないのに、亀がはっきりと見えるわ」と思いつつも、こんな傾いた屋根で動いてしまったら、たちまち屋根から転げ落ちてしまいそうです。
「『ここ』が正しいのかしら。『あそこ』が正しいのかしら。でも『ここ』が高いのだから『あそこ』まで行かないといけないのかもしれないわ」
あやめは、亀に困っているように思われたので、困っているような気になってしまいました。
「ええ、実は、大変困っているの。ここが、高いのか、それとも、傾いているのか、ええと。それらがわからなかったものですから」それとも、あなたがとても小さいのから、とつけ加えそうになったのを、遠慮する心のゆとりがあったのが不思議なくらいでした。
「ふむ。それは、とてもむつかしい問題だね」と、小さい亀からは信じられないほどの、とても大きな返事でした。
「ここが、どれだけ高いのかを知るには、道からの距離を測らなくちゃならん。また、ここがどれだけ傾いているのかを知るには、道からの角度を測らなくちゃならん、と思うがの」
「いえ、『どれだけ』という具体的なものは知らなくても良いのです。ただ、自分が『どういう』状態にあるのかが気になっただけなのです」
「ふむ。気になったことが、気に入らないということかの」
「ええ、まあ、そういったようなことです」と、あやめは、話がこんぐらがらないように、頷きました。「ただ、私は、ここから『どうやって』降りようかと思案していたのです」
「そうかい、そうかい。それも、とてもむつかしい問題だね」と、発せられる声が次第にゆっくりとなりながらも、更にはっきりと聞こえました。
「王子様が、君を『いつ』迎えに来るというのだね、と、確認しておいたほうがいいのかの」
「王子様ですって。王子様なんて知りません」あやめは、いきなり突拍子の無いことを言われてびっくりして否定しました。
「そうかい、そうかい。じゃあ、知っておいたほうがいいね。君は、王子様を待っているんだから」
「では、私は、この屋根の上で、ずっと待っていればいいのかしら」
「ふむ、それもむつかしい問題だね」それを言い終わるころには、あまりに亀が言葉を紡ぐ遅さに、眠くなってしまうほどでした。「そら『あそこ』に煙突があるだろう」
そう言われたので、あやめは辺りを見回すと、確かに煙突を見つけました。といっても、この大きな屋根に比べればとても小さなものです。
「煙突まで辿りつければ、良いのではないのかの。ただし、最短の距離でいかなくちゃならん。いかなくちゃならん、と思うがの」(あやめと煙突は、山なりになっている屋根のちょうど山の部分にいます。そして、その間には、四十五度の坂になり、下りきったとこから、四十五度の山になっています。つまり、真横から見れば、あやめと煙突を直線で引いたものから、九十度の角度で谷側にくっきりと切り取ったような感じです。で、真上から見れば、その谷を挟んで、あやめが右下に位置するとすれば、丁度、斜め四十五度左上に煙突がありました)
「最短距離で行かなければ、何か起こるのでしょうか」とあやめは眠そうになるのを必死にこらえながら、質問しました。
「ふむ、何か起こる必要があれば、何か起こると思うがの」
あやめは、わかったかどうかもわからぬまま、辺りの状況を見て、すぐさま歩き出そうとしました。「とにかく四十五度づくめだから、左四十五度に進めばいいのだわ」
そう言って、数歩進むと、突然、足元の屋根が崩れ落ちて、途端に吸い込まれてしまいました。
第五章 重たいは明るい、軽いは暗い
ほの暗い落とし穴は、どこまで行っても続いていきます。ころころと転がっていたあやめは、もうとっくに落下に慣れてしまい、いつのまにやら自分の足で走っていました。
「おやおや、一体全体何処までいくのかい」
という声が聞こえなければ、あやめは自分がいつまで走っているのかどうかを考えもしなかったはずです。きょろきょろと見回しても、声の主がわかりません。不意に足元をみると、そこには一匹の白い蛇が、自分と同じ速度で走っていたのでした。
「まあ、何て速い速度で走ることが出来るのでしょう」とあやめはびっくりして離れました。(というのも、蛇を意識したから、踏んでしまいそうだということに気づいたのです)
「そんなに失礼にされたのは、生まれて初めてだ」と蛇は怒りながら、あやめの足に今にも絡みつきそうなほどに近づいて併走してきました。
「そんなに近づいたらいつ踏んでしまうのかわかりません」あやめは困惑したように言いました。が、蛇は、あやめの足の間を「8の字」になるように、くるくると廻っているのです。
「そんなに踏んでしまうと思うのなら、止まればよい」
なるほど、と思い、あやめは走るのを止めると、不思議なことに落とし穴は落とし穴でなくなっていて、洞窟の出口にいることがわかりました。
「あら、そんなこと、ちっとも気づかなかったわ。どうもありがとう」とお礼を述べようと足元を見ると、白い蛇は、しゅるしゅると出口の方へと向かっていました。
あやめもそれに続くと、辺りは急に開けて、不思議な岩がいくつもある広場に出ました。
岩は透き通っているのにもかかわらず、色がついていました。色は、どうやら赤色、緑色、青色の三種類だけでした。しかし、岩が重なると、手前の岩の色が裏の岩の色と溶け合って、さまざまな色を表していたので、岩が半透明なことを忘れてしまうほどでした。
「まあ、何て素敵な岩なのかしら」あやめは、これほどまでに色鮮やかな光景を見たことがありませんでした。「黄色は好きだけど、黄色が好きって実感できるのは、きっと周りに他の色があるからだわ」
透き通る岩がどうなっているのか、触って見ようとした瞬間、声がしました。
「それに触っちゃいけない」
振り向くと先ほどの蛇が、背筋をぴんと伸ばして、あやめを見ていました。(もっとも、あやめの目には体のすべてが背筋のようでした)
「そんなに軽い色に触っちゃ、途端に体が浮き出してしまう」
「色に軽さなんてあるのかしら」
「あるとも、あるとも。もし、色に重さがないとしたら、果たして何に重さがあるというのだい」そう言われると、確かに重さがあるような気がしてきました。
「でも、色によって重さが違うのでしょうか」
「そうとも、そうとも。最も重い色は、白色だね」と、白蛇は答えました。
「それは意外だわ。最も重いといえば、てっきり黒色だと思っていました」
「黒は、最も軽い色。触ったら、途端に体が浮き出してしまう。浮いちゃ駄目だよ。なんたって、沈んでいかなくちゃいけないんだからね」
「沈むより、浮いたほうが楽しそうだわ」と思いましたが、蛇があまりにも非難を浴びせたので、反論しませんでした。
「とにかく、先を急ぐかの」そういって蛇は、まるまったり、伸びたり、器用な動きで岩の脇をすり抜けていきました。無駄な動きのようで、あまりにも素早いので、あやめは少し小走りで追いかけなければなりませんでした。
「白が最も重いのなら、どうしてそんなに素早く動けるのかしら」と、あやめは独り言のようにつぶやきました。
「重いものが速く動いてはいけないとしたら、動く順番としては、まず、周りの岩が先に動かなくてはならないね。まあ、結局は、周りの岩たちが動いていて、僕たちは全然動いていないことになるのだけどね」
前半の話には納得できましたが、白蛇の姿を追いかけているあやめにとっては、後半の話には納得できませんでした。
「周りの岩たちが動いているとしたら、どうして汗をかかないのかしら」
「それは、ね。汗をかけないからさ。そうらみてごらん」
と、蛇の言われたままに見ると、広間の中央には大きな井戸がぽっかりと口を開けていました。その外周があまりにも広いので、まるで垣根のついた池のようでした。(ただ、池ではないことの根拠が一つ、水らしいものは何もなかったからなのでした)
白い蛇は、そこに着くなり、ぴたりと振り返り、あやめが到着するのを、背筋を伸ばして待っていました。その様子を見ると、更に急がなければならないと思い、慌てて蛇に駆け寄りました。
「どうして、そんなに慌てているんだい」と、到着したあやめを蛇は不思議そうに眺めました。
「汗をかいてしまいそうじゃないか」
「だって、そんなに背筋を真っ直ぐにしているのは大変でしょう」と、あやめは申し訳なさそうに言いました。
「ふん、そんなに急いでくるほうが、よっぽど大変だと思うけどね」
蛇は、不機嫌そうに、鼻を鳴らしました。「まあ、とにかく、自分に触っておくれ」
「え、白はもっとも重いので、触ってしまったら、沈んでしまうって言っていたわ」
「しかるべきところで、しかるべきことをする以外はしてはいけないだけだ。ここでは、自分を触るべきなどとは思わないかね」
「では、そうしましょう。で、しかるべき触る『ところ』とは、何処なのでしょう」
「うむ、わかればよろしい。では、尻尾を触っておくれ」
あやめは言われたままに、さし出しだされた白蛇の尻尾を触りました。
第六章 おしゃべり森の逆さコウモリ
尻尾はにょきにょきと伸びていって、あやめはその先を持っていたわけですから、ずるずると、井戸の方へと引っ張られていきました。井戸の中をゆっくりと落下していったわけです。
井戸の中は暗かったので、あやめは不安に思いました。が、そう思った途端に、蛇の尻尾の先が光りだしたので、井戸の中がすっかりと良く見えるようになりました。井戸の壁には、様々な看板が建てかけてあるのがわかりました。
「あらやだ、こんなにたくさんの看板があったのに、暗くて、気づかなかったなんて。気づかなかったら、看板の意味がないじゃない」
看板は、あやめがきちんと確認できる向きのあるものを探す方が難しかったほどです。つまりは、てんでばらばらに壁に打ち込まれていたのです。なので、あやめはどちらを向いていればいいのかわからなくなってしまいました。
「もしもし、ここでは、そんなに首を傾げなくていいんですよ」と、ぱさぱさと舞い降りてきたコウモリが言いました。
「あら、コウモリさん。でも、どの看板を読めばいいのかわからなかったものですから」
「自分に合った看板がきっと見つかるはずですわ。私はこのように逆さに飛んでいるので、逆さにむいている看板に目を奪われてしまいます。といっても、私から見れば、あなたが逆さなんだけどね」(そうです、コウモリは、先ほどから頭を下にして空を飛んでいるのです)
「自分に合った看板を見つけるなんて。看板は、あえて見つける必要のないものだと思っていたわ」あやめの知っている看板は、見たくなくても自然に目が向いてしまうような派手なものばかりだったからです。
「ここは、意味のあるものばかりがあるばかりです。なので、何に目を通しても結構ですわ。ご自由に」
そういうと、コウモリは満足したように井戸の更に奥の方へと飛んでいってしまいました。(つまり、逆さのコウモリの「上」へと飛んでいったのです)
「ご自由どころか、不自由しないわ」あやめは、看板の一つに注目しました。
「本日、十九時より、舞踏会。来たれ、『おしゃべり森』を抜け、いざお城に参らん」
「亀さんが言っていた王子様は、この舞踏会に来るのかしら」とあやめは首を傾げました。「でも、時計や、空の光がなければ、いつが十九時なのかわからないわ」
その看板も通り過ぎ、やがて井戸の底が見えてくると、蛇のしっぽは伸びるのをやめてぴたりと止まりました。あやめが底に足をつけて、辺りを見回しました。が、どこも、看板で埋まっています。ふと、前を向きなおすと、先ほどのコウモリが眠たそうに看板の一つにぶら下がっていました。
「あら、コウモリさん。先ほどはどうも」
「よろしい、挨拶はしっかりとしなくちゃね」と言うと、コウモリはうれしそうに飛び回りました。やはり、逆さに。
「よし、特別にいいことを教えてあげよう」そういうと、コウモリはある一つの看板にぴたりと止まりました。(そのときも逆さに止まったので、あやめはなんとも器用だなあと感心しました)
「この看板を時計回りにひねって、思いっきり引っ張ってください」
あやめが言われるままにひねって、そして思いっきり引っ張ると、周りの看板の一部が一緒にくっついて手前に動きました。
それはまるで扉を開くようでした。ちょうど、あやめ一人分が通り抜けられるほどの入り口が開き、そこから、明るくて暖かい光が発せられました。
「ささ、そこから入って、森を抜けてください。どうぞご無事で」とコウモリは光がまぶしそうに遠巻きに飛び回りながら言いました。
白蛇は、手ならぬ、尻尾を振っています。
「コウモリさん、そして、白蛇さん、どうもありがとうございました」
あやめは、扉を抜けると、辺りはすっかりと木々で覆われていました。扉は木と一体化していて、実は、いままで木の幹を通ってきていたというのがわかりました。
森の木々は、今まであやめが知っているどの木よりも、不思議でした。というのも、どの木も幹の太さはゆうに先ほどの井戸の外周ほどもあり、空を突き抜けるほどの高さにまで伸びているのでした。また、根っこや、枝からは看板が無数に生えていて、それがちょうど葉っぱの代わりであるかのようでした。
「木から看板が生えていたのね。てっきり誰かが看板を建てかけていたと思っていたのだけれど」あやめは、このことを知るととてもうれしく思いました。というのも、今まで木は何も考えていないと思っていましたが、看板を通して会話できるということに気づいたからです。
あやめは、自分に合った看板を探しながら、歩き始めました。木々がとても複雑に入り組んでいましたが、看板どおりに行けば、きっと何処かにたどり着けるはずなのだと思ったのです。
暫くすると、あやめはどこからか声がするのに気づきました。
第七章 ヤギ先生とオオカミ少年
大きな木の下に大きな机があり、そこに、二つの姿がありました。それを確認すると、あやめは、早速、近づいていきました。(とにかく、ここにいる住人を見かけたら話しかけるべきだと思っていたのです)
子供の狼と、大人のヤギが腰掛けていました。一見すると、ヤギ先生が生徒の狼君に勉強を教えているような位置関係でした。ところが、ヤギ先生がとても困ったような顔つきをしているので、あやめはどうやら難しい問題を考えているのだと思いました。
「こんにちは、ヤギ先生」と、あやめは、「先生」かどうかも確認せずに、既に敬称をつけていました。
「ああ、こんにちは。ああ、こまったこまった」声に出してまで困っているので、そうとう困っているのに違いありません。
「どうしたのですか。先生でも困ることがあるのですか」
「それがね、狼君があまりにも熱心に本を読んでいるのでね。ああ、こまった」
「まあ、何て素晴らしいことでしょう」と、あやめは思わず声を出してしまいました。というのも、あやめは、本を読むことよりも、外で土遊びをしていたほうが熱心になれる自信があったからです。
「ええ、それが、素晴らしく困ってしまうんです」と、ヤギ先生は、相変わらずの顔をしてつぶやきました。「というのもね、私はその本の『ある箇所』を直す必要があるのですよ」
「では、狼君の読んでいるその本は、先生が書いていらっしゃるのですか」
「ええ、ええ。そうです」
「まあ、何て素晴らしいことでしょう」と、あやめは再び思わず声を出してしまいました。というのも、本を書いているような人と初めて会話したからです。(本を書いている人は、今まで、本を通じてしか会話ができなかったのですから)
「ええ、ええ、それがですね、素晴らしく困ってしまうんです」と、ヤギ先生は、またまた困った顔をしました。「その本はそれ一つしかないのです」
「まあ、何て素晴らしいことでしょう」と、あやめは三たび思わず声を出してしまいました。というのも、世界で一つしかない本があるというのを今まで知らなかったからです。狼君をこれほどまでに夢中にする本が、もし、いろんな人の手に渡ったのなら、たちまち子供たちの注目の的になるのに違いありません。
あやめは、世界でたった一つの本が、一体全体どのような内容なのか興味津々でした。が、ヤギ先生の困っている姿を見て、何とかしないといけないと思いました。
「では、ちょっとだけ貸してもらう、というのはどうでしょう」
「それが、何回頼んでも駄目なんです」という、ヤギ先生の声に覆いかぶさるように狼君の甲高い声が響きました。
「先生が書き込む時間は、ちょっとじゃすまないから嫌だ」
「そうなんですか」と、あやめはヤギ先生を覗き込むと、ヤギ先生は、困ったように、あごに蓄えている髭を撫でて頷きました。
「ええ、書き込むためには、その前後の文脈を読み込まなければならないので、なんともかんとも時間がかかってしまうのです」
「では、その前後を狼君に読みあげてもらうというのはどうでしょう。ちょうど書き換えたい箇所になったときだけ訂正してまた狼君に手渡せば、大抵が狼君の手元にあるわけですから」
「なるほど」と、二人は大きく頷きました。
「それは、良い案だね。では、狼君。本の目次を読み上げてください」
「はい。先生」
と、軽快に返事をした後の狼君の朗読は、実にたどたどしく発せられたので、あやめは、笑ってしまいそうになりました。
「第一章、黄色い猫から落ちる」
「ちがう」
「第二章、私を呼ばないで、私があなたを呼ぶから」
「ちがう」
「第三章、不規則な石畳」
「ちがう」
「第四章、屋根の上の不動亀」
「ちがう」
「第五章、重たいは明るい、軽いは暗い」
「ちがう」
「第六章、おしゃべり森の逆さコウモリ」
「ちがう」
「第七章、ヤギ先生とオオカミ少年」
「ちが、……おっと、それ、それ。変更したいのは、その章でした。すみませんが、その章を開いて読んでください」
狼君が読み上げている第七章の内容が、先ほど、あやめがここに来て、悩んでいるヤギ先生に話しかける行為と全く同じ内容だったので、びっくりしました。(すでに本になっていることを体験しているのか、体験していることが本になっているのかわからなかったのです)
しかし、本の内容では、以下のくだりが違っていました。
* * *
「では、ちょっとだけ貸してもらう、というのはどうでしょう」
「それが、何回頼んでも駄目なんです」と、ヤギ先生は悲しく頷きました。その悲しそうな姿を見て、狼君はしぶしぶ本を渡しました。
ヤギ先生は、冒頭から本を読み始めました。というのも、直したい箇所が、実はいっぱいあったからなのです。先生は、ぶつぶつといいながら、ほとんどの箇所を書きかえていきました。それを見ていた狼君は、お気に入りの話を目の前で削除されていることに腹を立てはじめました。しかし、ヤギ先生はそれにはお構い無しで、一向に本を返しません。
怒った狼君は、とうとうヤギ先生を食べてしまいました。
* * *
「そうそう、ここの箇所をかえたかったのです」とヤギ先生は思い出したように頷きました。
「確かにかえたほうがいいよ」と狼君も頷きました。「だって、ヤギ先生がいなくなったら、本の続きが書かれないんだもの」
ヤギ先生は、あやめに向きなおしてお辞儀をしました。「ありがとう、君。名前はなんと言うのですか」
「あやめです」
「おお、君も『あやめ』というのですか」と言って、先生はおもむろに今の箇所の本の頁をやぶり、その裏側に筆で字を書きました。
「お礼に、これを持っていって下さい」
「ありがとうございます」と、あやめはそれが何かもわからず、とりあえずもらったものに対してお礼をしないといけないと思い、お辞儀しました。
紙には、このように書いてありました。
「王子様へ あやめを舞踏会にご招待くださり、ありがとうございます」
第八章 おしゃれなハクビシン
あやめは、二人に別れを告げて、更に森の奥へと進みました。道は更に入り組んでいましたが、時折、街の存在を表示する看板を確認しました。(距離の単位はわかりませんでしたが、徐々に数字が減っていると言うことはそれだけ近づいていると言うことを表しているのだ、とあやめは思いました)
『けもの道』という看板を見つけたので、それに向かって歩いていくと、高々とそびえる木の間を縫うように、ぽっかりと開かれた平坦な細い道を見つけました。しかも、その細い道には茶色い絨毯が引かれ、道のかなたまで一直線に伸びているのです。
「まあ、何て『すんなり』と伸びた道があるのでしょう」とあやめは感心しました。
「おお、褒めてくださるなんて何とも光栄」と木の陰から声が響きました。
あやめが木の裏手に廻ると、黒い服を着こなしたハクビシンが優雅に立っていました。
「おお、これはお嬢さん。ところで、一体全体何を褒めなさったのですか」
「ええ、何て、平坦で『すんなり』とした『けもの道』だと思ったのです」
「なんと、この私を差し置いて、この道を褒めていたのですか」とハクビシンは頭を抱えてうろたえてしまいました。
「いえ、そういう意味ではないのだけど」と言いながらも、大体そういう意味だと思っていたので、あやめは言葉を詰まらせてしまいました。
「いえいえ、結構結構。ここにいるこの私が、何処の誰かを知らないまま、貴方は早とちりしてしまったのですね」
「まあ、大体そういう意味だと思います」と、あやめは呆れながら答えました。
ハクビシンは、片手に杖を持っていましたが、それを愉快そうに二度くるくると廻して上機嫌さを表現しました。
「まあ、お嬢さん。私が、何かをするのではないかと期待していると、私は信じていてもよろしいでしょうか」
「ええ、大体そのようかもしれません」と、あやめは遠慮がちに頷きました。
「そうですかそうですか、それはそれは、あなたの関心に感心しますね」ハクビシンは自分自身の言葉に満足したように頷きました。
「して、お嬢さん、あなたは何処へ行くのでしょうか」
「ええ、私は、先ほど『舞踏会』に参加することになりました」(『今回』は、はっきりと目的地を示すことが出来てうれしく思いました)
「おお、なんと。それはそれは。では、今から街に向かうのですね。では、その場所をお退きになりませんか」
突然、そのように言われたので、あやめはわけもわからず移動しました。
「ああ、もっと右。ええっと、もっと、ええ、そのくらい」
言われるままに移動すると、あやめは、いつのまにやら茶色い絨毯から外れていました。ハクビシンはにんまりとして、指をばちんと弾きました。
すると、絨毯は、みるみるうちに重なっていき、やがて大きな馬車の形になりました。絨毯のなくなったため、周りと大差のない道となりましたが、しかし、ところどころに花が植わっています。
ハクビシンは植わった花に近づき、二束分を摘みとって、ふうっと息を吹きかけると、花は見る見るうちに大きくなって、やがて、二匹の馬の形になりました。これで、すっかり馬車が出来上がったわけです。
「まあ、何て素敵なの」とあやめは声をあげました。
「さあ、この馬車に乗って街へと参りましょう」と、ハクビシンは上機嫌で丁寧にお辞儀をしました。「何かを期待している人に、何もしないという残忍なことをこの私がするはずがないですからね」
あやめは、うれしくてたまらず、三回のお辞儀をしました。
「それでは、よろしくお願いします」一つは、ハクビシンに。残り二つは馬に。
「まかせておくれよ、お嬢さん」と左の黒い馬がお辞儀にこたえました。「白い馬よりも丁寧に走って見せるから」
「まかせておくれよ、お嬢さん」と右の白い馬がお辞儀にこたえました。「黒い馬よりも速く走って見せるから」
「まっさらな砂漠を歩くのに、右側か左側の靴が磨り減っていたら、ずっと同じ円を描いてしまうことになるけれど」と、ハクビシンは顔をしかめて言いました。「道は、道なりに続いているので、馬は馬なりに進ませるがいいでしょう」
「本当に大丈夫かしら」とあやめは思いながらも、ハクビシンの差し出した手に誘導されて馬車の中へと乗り込みました。
第九章 馬車の住人たち
馬車の中は大層狭く、あやめが乗り込むのが精一杯でした。(というのも「余計なものが」たくさん置いてあったのです)
「それじゃ、気をつけていってらっしゃい」と、ハクビシンが手を振ると、二匹の馬は勢いよく駆け出しました。
「本当に大丈夫かしら」と、あやめは、馬車の中にある様々な棚の様子を見て思いました。
あやめの目の前は、背丈いっぱいまで茶色い棚に覆われていました。棚には所狭しと白い食器などが置かれています。馬車が揺れ動くたびに、食器たちが、がしゃんがちゃんと音を発てて、今にも落ちてきそうな有様でした。
しかし不思議なことに、どれだけ揺れていても、どの食器も落ちてきません。
「何てお行儀の良い食器かしら」と、食器たちを褒めながらも、あやめは勇気を振り絞って外で走っている馬たちに頼みました。
「あの」と、あやめは大きな声を出して外へ向かって叫びました。「もう少し、丁寧にゆっくりと運転してくださらないかしら」
「運転は、すこぶる丁寧だよ、お嬢さん」と、黒い馬が呼びかけにこたえました。「ただ、白いやつがあまりに小石に足を取られるからいけない」
「運転は、すこぶる順調だよ、お嬢さん」と、白い馬が呼びかけにこたえました。「ただ、黒いやつが地面に『小石をおかないでください』と頼んでおいてくれないからいけない」
「まあ、地面に頼むですって」と、あやめは大きな声で独り言をつぶやきました。「どちらかというと、小石たちに頼んだほうがよさそうだわ。だって、地面が移動するわけにはいかないんだもの。そもそも、馬たちの仲が悪いのがいけないんじゃないのかしら」
「もし、白い馬が俺と仲良くなるとしたら」と、黒い馬は鼻息混じりに言いました。「俺は丁寧に走る意味がなくなってしまう」
「もし、黒い馬が私と仲良くなるとしたら」と、白い馬は鼻息混じりに言いました。「私は速く走る意味がなくなってしまう」
「仲が悪いのだけれど」と、あやめはため息混じりに思いました。「言い合いの呼吸はぴったりだわ」
「とにかく、揺れないようにするために、小石に頼んでみようかしら」と、思いながらも、首をすくめました。「でも、小石は道にたくさんあって、先のほうにあるんですもの、一体全体『どの』小石に、『どうやって』伝えたらいいのかわからないわ」
「あらそれじゃ、考えないといけないね」と、突如、馬車の中から声がしたので、あやめはとっさにそちらを見ましたが、そこには棚から落ちそうになっている食器たちしかありません。
「あら、一体全体『何』から声が聞こえたのかしら」
「多数の中から、一つを探し出すのは大変だろうけど、多数が一つであると思ってしまえば、お嬢さんはそちらに話しかけなされば良い」
「まあ、食器が話しかけてきたのね」あやめは怪訝な顔をして、目の前の棚に眼を移しました。
「どのお皿に話しかければよいか判らないのですが」と、おろおろと様々なお皿に目を奪われながら言いました。「そして、何という名前でお話すればよろしいか判らないのですが、えっと、お皿さん」
「それじゃ駄目だね、だって俺はお皿じゃないもの」と急須。
「では、食器さん」
「それでも駄目だね、だって私は器じゃないもの」と箸。
「だったら、何と呼べばいいのかわからないわ」と、あやめは頭を抱えると、杓文字がやさしく話しかけてきました。
「もし、もし、呼び方が判らないのなら、判らないままにしておけばいいわ。例えば、『何か』というふうにね」
「ええ、じゃあ、そうさせていただくわ、『何か』さん」
あやめがそういったと同時に、食器たちは自分が呼ばれたものだと思い、いっせいに、おのおのの返事を始めたので、馬車の中いっぱいに声が響きわたりました。
「まあ、何てにぎやかな食器たちなのかしら」と、あやめはびっくりして思いました。「食器のぶつかり合う音よりも、更に騒がしくなってしまったわ」
一番初めに話しかけてきた声が響くと、食器たちは突如として話を止めました。
「揺れには、散々苦しめられているんだ」どうやら話しかけてきていたのは、一番下の段にある大皿だったようです。「ぶつかり合うと、ひびが入ったり、欠けてしまうかもしれないからね。もうちょっと、穏やかにならないものかね」
「それでしたら、私たちが、小石を取り除いてあげましょう」と、小皿たちの声が歌うように響きました。
「あら、お皿に、何が出来るのかしら」とあやめは思わず言ってしまいました。
「私たちにだって、できることがあるんですよ、あなたがのぞんでくださればね」
「もちろん、私も、揺れないほうがいいわ」
あやめがそういうと、小皿たちが棚からぱらぱらと落ちてきました。あやめは危険を感じてさっと頭を抑えました。
ところが、小皿たちは、落下中にみるみるうちに形を変えて、やがて鳩の形になって、馬車の窓から飛び立っていきました。
「まあ、何て素敵なんでしょう」あやめは、窓から頭を出して飛び立った鳩たちの様子を眺めました。
道に降り立って小石を啄ばむ鳩たちの群れが、さながら白い絨毯のように広がっては、つぎつぎと道の前へと続いていきます。
たちどころに馬車が安定し始めて、揺れをほとんど感じなくなりました。
「お礼を言わなくてはいけないわ」とあやめは思いました。「でも、鳩なのか、小皿なのかわからないんだもの。そうそう、きっと『何か』だわ」
そう思い終わった途端、馬車は途端に停まりました。
あわてて外を覗こうとすると、ハクビシンが、不意に馬車を覗き込んできました。
「やあ、馬車の乗り心地はどうだったかね」
「ええ、結構な感じでした」
「それは、結構結構。では、あなたはまず、初めに向かいの服屋に行き、とびっきりの服を選び、そして、その隣の靴屋にて、ぴったりの大きさの靴を調達してください。それでは」
そう言ってしまうと、ハクビシンは、颯爽と馬車を降りていきました。
「いつ先回りしたのかしら」という疑問で頭を抱えていたので、あやめは、とっさに言われたことのすべてを覚えることができませんでした。もう一度、確認しようと慌てて外へと飛び出しました。
第十章 繰り返す馬
飛び出すと、華やかな通りへと出ました。様々な動物が思い思いの顔で街を練り歩いています。でも、どこか変なのは、皆、あやめの見慣れない格好をしているからなのでした。
古めかしい格好なのかもしれませんが、あやめには新鮮に見えました。
「こんな服装に着替えれたら、きっと毎日が楽しくなるわ」
道を挟んで向かい側を見ると、たくさんの建物が一様に並んでいました。
丁度正面には服屋の看板が見えました。
「建物の外見がほとんど同じだから、看板がなければ、一体全体どの建物が服屋なのかわからなかったわ」独り言を言いつつ、あやめは、そこを目指しましたが、道の往来は激しいため、横切るのは至難の業です。背丈の低いあやめは、群集に飲み込まれたら直ぐに、方向を見失って、右往左往としてしまいました。
ようやく人通りの無いところに来たかと思うと、また、馬車の前に舞い戻ってしまいます。
何回か試しても、やはり、同じ場所に押し戻されてしまいます。
「どうして、いつも同じところに戻ってしまうのかしら」と、とうとうあやめは大きな声を出して訴えました。
「どうして、ここが、さっきと同じところだって思うの」と、あやめが乗って来た馬車の白い馬が、首をかしげながら言いました。
「ええ、だって、いつも押し戻されたところにあなたたちがいるのですもの」
「まあね、でも、僕たちが動いていないとも限らないけどね」と黒い馬。
「あなたたちにまた乗せてもらえば、あの服屋まで行くことが出来ますか」とあやめは遠慮がちに言いました。(というのも、あまりにも往来が激しいので、無理やり通ることはできないと半ば諦めていたからなのです)
「あの中に入っていくのは、もう耐えられないの。だって、何処へ進んだらたどり着けるかわからないんだもの」
「進む方向が正しいかどうかはすべてあなたの判断だが」と黒い馬は、穴息を荒く噴出しつつ答えました。「もし、あなたが群衆の中に入りたくないと思うのなら、入るべきではない」
あやめは、これ以上言うと、常に同じことを繰り返しかねないと思って、首をふりました。
すると、それを見かねた白い馬がやさしく呟きました。
「この世界では物事は、『流れる』か、『繰り返す』か、『分岐する』かの三種類しかないの。もちろん、後者の二つは『流れる』に含まれるのだけど、丁度、今あなたがいるのは『繰り返す』の中。条件が満たされるまで、繰り返されるのさ」
「では、繰り返さないための条件があるのですね。それを教えていただけないのかしら」
「それは、簡単。繰り返しが終わるまで繰り返されることさ」
「何てこと、ではやはり繰り返すしかないのですね」あやめが悲しそうに首を振ったので、それを見かねて、黒い馬が呟きました。
「もし宜しければ、繰り返した『ふり』をしても良いが」
「まあ、『ふり』ってどういうことかしら」とあやめは首を傾げましたが、黒い馬がにっこりと微笑みかけてくれたので、お願いすることにしました。
「そうこなくっちゃ。では、馬車にお乗りなさい」
言われたとおりにあやめが馬車に乗ると、二頭の馬は、身体に巻きついていた紐を馬車から離した後、勢い良く馬車の周りを廻り始めました。(紐がはずれているので、あやめの乗っている馬車は一向に動いていません。しかし、あまりにはやく廻っているので、馬車から覗く外の風景が、線のように見えるほどです)
「何て速く走っているのかしら」あやめは感心しました。「もし、こんなに速く走ることが出来たのなら、世界は線ばかりになってしまいそうだわ」
やがて二頭の馬の動きが鈍り、止まりました。
「決して疲れたわけではないよ」と、二頭の馬が、息を切らせながら馬車を覗き込み訴えました。
「私のためにしてくださったのだもの。感謝するわ」(でも、どんな変化がおこったのかわからなかったので、あやめはわかった『ふり』をしました)
「まあ、外を見ずに良くそんなことが言えるわね」と白い馬が言うので、外を覗き込むと、そこには、白く美しい木造の建物が建っていました。
「まあ、いつのまに店の前まで来ていたのかしら。もし、こんなに苦労せずにたどり着くことが出来るのなら、もっと早めに頼んでおくのだったわ。ありがとうございました」
そうお礼を言った後、あやめは、服屋の扉を引きました。
第十一章 狐おばあさんと盗まれた色
店内は、色とりどりの布で埋め尽くされていました。
壁中、ぐるっと一周して綺麗な布の色の変化を見渡すことが出来ました。
「まあ、何て美しいのかしら」
「美しいのは、大して重要ではないね」と途端にしわがれた大きな声があやめの声を覆いかぶさりました。
「多くの布がたくさんあることに比べればね」
壁に釘づけになっていた視線を目の前に向けると、椅子には、狐のおばあさんが座っていました。
「美しいことと、たくさんあることは比べられないと思います」
「おやまあ」あやめの返答に、とっさにそう言い被せると、おばあさんは口を閉ざしてしまいました。
あやめはどうしていいのかわからず、途方にくれたまま、暫く一向に動かないおばあさんの姿を見ていましたが、どうにも壁の美しさが気になって、視線をそちらに奪われそうになりました。
そうすると、とっさにおばあさんの声が覆いかぶさりました。
「あんたは、一体全体どうやって来たんだい」
「馬車に揺られてきたんです」
「おやまあ」
このとき、あやめは、おばあさんのこの文句は、あきれではなくて、相槌ではないかと勝手に納得しました。(そう思わないと、会話をするのが途切れてしまうと思ったからです)
「そして、道の往来まで着くと、ハクビシンさんが、ここに来て服を仕立てるべきだというので来ました」
「おやまあ」
そのあと、馬との会話によって往来を抜けてここまで来たことを正直に話しました。
おばあさんは、聞いているか寝ているのかわからないほど、こくりこくり、と定期的に頷いていました。
あやめがここまで至った経緯を伝え終わっても、数分間は何も言わず同じ動作を続けていました。
「もし、こんなにじれったいのなら、話をしないほうがマシだったわ」
と、心の中で思いながら、視線を壁のほうに向けようとすると、突然、大きな声が響きました。
「もし、世の中で、してはいけないことのいくつかを挙げるのなら、そのうちの一つは『しているふり』をすることだね」
「なんですって」
「もし、お主に何らかの仕事を頼んでおいて、『しているふり』をするとしよう。『もう少しか』と尋ねたところ、『もう少しです』とこたえたのなら、三重の罪を犯すことになる。一つは、ウソをつくこと、もう一つは、期待を持たせてしまうこと。そして、もう一つは、発覚してから、仕事を片づけるのに、更に労力を費やさねばならないこと。そうは思わないか」
あやめは、「もう少しか」と尋ねられたことも「もう少しです」と言った事も覚えが無かったけれども、話の内容は、確かにその通りだと思ったので、こくりと頷きました。
「そう思います」
「それでは、困る」と、お婆さん。
「お主は、『そう思わないか』いう問いに『そう思います』と応える事によって、四重の罪を犯したことになる。一つは、思わせぶりの返答をすることによって、きちんとした返答をしているかどうかが疑わしいこと。一つは」
「すみません」あやめはたまらなく口を出しました。
「私は、これ以上、罪を犯さない方法を教えていただければ、そうします」
「そうかい、もっと、早くに謝って欲しいものだね。色を盗んでいたというのに」
「何ですって」あやめは、叫んでしまいました。「私は、いまだかつて、盗みをしたことなんてありません」
「おやまあ、さっきから、盗んでばかりじゃないか」
「私がここに来たのは、色を盗みに来たのではなく、服を仕立てていただくためです」
「おやまあ、そうかい、そうかい。それを早く言わないから話がややこしくなる。それじゃ、そこにかけておくれ」
お婆さんが指をさした先には、小さな木の椅子がありました。あやめが、言われたとおりに椅子に座ると、お婆さんは、杖を片手にゆっくりと立ち上がり(本当にゆっくりです)腰をかがめながら、ゆっくりと歩き(これまた本当にゆっくりです)あやめの真向かいに移動しました。あまりにもゆっくりなので、おばあさんの頼りにしている杖が相当に重いと勘違いしてしまうほどでした。
あやめの前に立つと、お婆さんは、杖を前に立てて、あやめの方向を見据えました。つまり、あやめ、杖、お婆さんが一直線に並んだわけです。
お婆さんは、かがみこんで、杖とあやめをじっくりと見比べました。
「おやまあ」とお婆さんが叫びました。
「お主は『この』杖よりもずいぶんと大きいのだな」
「『その』杖に比べれば、大きいに決まっているわ」
「それ、動いてはいけないよ。今、計測中だから」
そう言われたので、あやめは、ぴんと背筋を伸ばして、座りなおしました。
それから数分もの間、じっとしていましたが、計測が進んでいるのかどうか、わかりません。
そうこうするうちに、時計がぼんと、音を発てたので、またとない機会だと思い、あやめは勇気を振り絞ってそっけなく(本当にそっけなくです)尋ねました。
「もうそろそろ、計測が終わったかしら」
「おやまあ、とっくに終わっているよ」
「そんなこと、少しも聞いていなかったわ」
「言っては無いからね」
何て、いじわるなのかしら、とあやめは思いましたが、荒立てて、今までの計測が無駄になってしまうのも残念なので、黙っていました。
「お主、結果が気になるか」
「ええ、是非教えていただきたいわ」
「おやまあ、何て傲慢なのかい、結果が気になるか否かを尋ねたのに、教えるかどうかは、また別の話じゃないかい」
「お言葉ですが」と言おうとした時、時計が再び、ぼんと音を発てました。
「お言葉ですが、何て不規則な時計なのかしら」
あまりに、突然の時計の音に、あやめは言いたいことがちぐはぐになってしまいました。
「あの時計が、規則的に鳴ることは、あまり重要じゃないね、むしろ、重要なことは、なり続けたら、時が早く過ぎてしまうことだね」
「時間が早く過ぎるなんて耐えられないわ。それだけ早く年をとるのかしら」
「年はいくつだね」
あやめは、正直に答えました。
「おやまあ、もし、お主が、年を尋ねられたら、こう答えるのが良かろう。『時をとめてくれさえしたらきちんと答えられるのに』とね。まあよい、お主の年の数だけ、首飾りをしつらえてあげよう。さあ、立って、あちらを向いておくれ」
「まあ、素敵。誕生日のときみたいね」
あやめは、喜んで、言われるままに立ち上がり、お婆さんに背を向けました。
すると、後ろから、勢いよく、ぽんと背中を押されました。
第十二章 靴屋の狸と変わらない建物
ぽんと押された勢いで、扉を押しのけて、外へ出たと思ったら、いつの間にか、建物の中に入っていました。
あやめは、おそるおそるその建物の内装を見渡しました。(というのも、また、色泥棒に間違われてしまいそうだと思ったからです)
内装は、先ほどの服屋の構造と瓜二つでした。家具の配置も一緒でした。ただ、服屋のように、壁一杯の色とりどりの布が無く、代わりに、靴の皮がところせましと垂れ下がっていました。
「この皮だったら、私の目も『奪われない』わ」とあやめは安心しました。
「いらっしゃい」と快活な声が響いたので振り返ると、狸のおじさんが座っていました。
「どうしたんだい、そんなに辺りを見回して」
「いえ、この建物が先ほどいた服屋と、ほとんど同じ家具の配置だったものだから」
「ああ、なるほどね。ここら辺の建物は、ほとんど一緒だよ。共通のものをえりすぐるより、違いを見つけるほうが簡単だからね。僕が驚くのだとしたら、目新しい物を見たときだね。で、これなんかどうだい」
と、おじさんは、得意げに言いながら、棚からトンカチを取り出そうとしました。といっても、片手には、ぐっとあやめの見えないものを引っ張っているような状態だったので、非常にトンカチが取りにくそうでした。ようやく棚から取り出すと、にんまりと微笑んでかかげました。
「このトンカチは、僕の持っているものの中で、一番新しいものだぞ」
取るのがじれったかったわりには、何の変哲も無い普通のトンカチにしか見えませんでした。
「私達の周りでは、珍しいものを自慢するわ」と、思いましたが、口には出しませんでした。
おじさんのそのトンカチを自慢する満面の笑みが、実にすがすがしい表情だったので、あやめは、そのトンカチが、実に素晴らしいものに見えてきました。
「まあ、とても綺麗なトンカチね」
「そうだろう。もし、よかったら、お嬢さんの靴をこのトンカチで、叩いて差し上げようか」
「まさか、本当にトンカチで靴を叩こうとするつもりかしら」と、あやめが思っているところにおじさんは、にんまりとして言葉を続けました。
「では、まず、足の大きさをおしえてほしいのだが、三十二よりも、大きかろうか、小さかろうか、同じだろうか」
「勿論、小さいわ」
「それじゃ、八よりも、大きかろうか、小さかろうか、同じだろうか」
「えっと、大きいわ」
「では、十六よりも……」
「すみません、もし計らずに尋ねるのだったら、私は、自分の足の大きさを知っているので、数字を言ったほうが早いと思うのですが」
「おお、そうだね、それには気づかなかった。でも、あいにく計れないんだ。さっきから、片手が引っ張られて、巻き込まれてしまいそうで」
そう言われたので、おどろいて近づいてみると、おじさんは糸巻きのようなものを手で廻していました。
「糸巻きのようなもの」と言ったのは、実際、器械の先端で、糸がくるくると跳ね上がっているからです。
「どういう原理か知らないけれど、手を止めればいいんじゃないかしら」
「違うんだ、僕がまわしているんじゃなくて、この器械がまわっているんだ」
ああ、それは大変と思い、あやめは、急いで器械に駆け寄り、手伝いました。すかさず取っ手を掴んで力を入れましたが、逆に勢い良く引っ張られてしまいます。
そうこうするうちに、何処からともなく、声のような音が聞こえてきました。
初めは、とても、弱々しいものでしたが、あやめの力が抜けて、回転が速くなると、音が速く、更にはっきりと聞こえてくるのです。
「まあ、まるで蓄音機のようだわ」
と、あやめは、うきうきしてきましたが、しかし、力を抜いてしまうのは、失礼だと思い、必死に力を入れました。
しかし、男と同じだけの力を出せるはずもありませんので(ましてや、男と同じだけの力を出したとしても、この回転を止めることが出来たのでしょうか)器械は回転し続けて、引き伸ばされたような声が、ゆっくりと流れ出しました。
「何て言っているのかしら。気になるわ」
と、じれったく思い、あやめが叫ぼうとしたときに、いよいよ、糸巻きの回転は、どうにもならないくらいの力が加わり、速くなっていきました。
ぐるんぐるんと回転が、高鳴り、やがて、取っ手を持っているあやめ自身も巻き込まれました。
器械は、いろんなものを引っ張っていきました。
あやめは勿論、おじさん、この家の床、天上、壁、入り口、様々なものを吸い込んでいきました。
(といっても、あやめ自身が回っていたので、そういうふうに見えていたのかもしれません)
手を離そうものなら、直ぐにでも吹き飛んでしまいそうです。
第十三章 女王様の舞踏会
「本当に、回転が止まる保障があるのかしら」
と、疑問に思っている頃です。
すべての色を飲み込んで、真っ暗になった瞬間、突然、回転が止みました。
何が起こったのかと周りを見回しましたが、何も見えなかったので、何かを見るということを諦めなければなりませんでした。
ただ、暗闇の中から、先ほどの引き伸ばされていた音がすっかりと、ひそひそ声となって聞こえてきます。
あまりにもひっきりなので、人の声なのか、かえるの声なのかがわからないくらいでした。
「もう、待ちきれないわ」という甲高い声。
「待たないといけないさ」という制する声。
どの声も、何かを期待する内容でしたが、一体全体、『何』を待ちわびているのかを言っているものは一つもなかったので、あやめは、じれったくなりました。
「すみません」もしかしたら、蓄音機の再生じゃないかと思いつつも、あやめは、近くで声をした方向に声をかけました。
「今から、何が起こるのでしょうか」
「そんな野暮なことを訊くもんじゃないよ」と、ぶっけらぼうに声が返ってきました。
「そうよ、誰も、未来のことなんかわからないんだもの」
「でも、皆さんは、何かを期待しているのですよね」
「予定は、未定だとも」という男の声。
「ええ、しかし、予定時刻は過ぎているんだ。もしかしたら、王子様が寝坊しているのかもしれない。あるいは、寝ちがえているのかもしれない」
「そんなことってあるのかしら」と、あやめは呆れました。「こんなに大勢の人が待ちわびているのに、寝過ごす王子様がいるのなんて」
ただ、あやめが、本当に、寝坊しているのかもしれない、と思ったのは、数々の声に混じって、鼾が鳴り響いてきたからなのです。
「こんなに真っ暗だから寝てしまうのかもしれないわ。ただ、本当に緒寝坊さんならね」
「真っ暗っていうほどのしゃれた服があるって言うのかい」
そう轟くと、あたりは、たちどころに明るくなりました。
明るくなった途端に、周りにいた様々な動物たちが、わあわあと思い思いに、一斉に大きな声を発しました。
あやめの周りの動物たちは、往来を歩いていたときと同じ格好をしていました。「みんなここに向かっていたのね」
その中でも、微かな鼾が聞こえてくるので、ついぞ、あやめは呆れてしまいました。
「静かにしなさい」と、ひときわ大きな先ほどと同じ声が轟いた途端、騒ぎは、たちどころにおさまりました。
「女王様が怒っているぞ」
というひそひそ声がしたので、「女王様ですって」とあやめは、驚きの声を上げました。
「あの声の主は、服屋のおばあさんだわ」
声を張り上げたつもりではないのだけど、静まり返っている中で響いてしまったので、あやめは、とっさに口をつぐみました。
ところが、もはや、手遅れであったらしく、あやめの周りの動物たちが一斉にあやめを見ました。
「お嬢さん、いけない、いけない。はやく、女王様に謝りなさい」とか「頭を隠しなさい」とか、小声で助言してくれるのです。
「でも、大丈夫よ」とあやめは、にんまりと微笑んで、皆に諭すように言いました。
「だって、さっきまで、この声の持ち主のおばあさんと会っていたのですもの。聞き間違えてなんかいないから」
皆が一斉にシーという格好をするものだから、あやめはおかしくて仕方がありませんでした。
「あの、おばあさんったら」と言いかけた時に、一番大きなクマが、よろりと体勢を崩したので、驚いてそちらを向くと、ゆっくりと歩いてくるおばあさんの姿がありました。
見間違えることはない、確かに、服屋のおばあさんでした。先ほどとは比べ物にならないくらいのきらびやかな服装を着こなしているのにもかかわらず、歩き方が、さきほどと少しも変わっていませんでした。
「女王様だ」という声で、あやめの周りの動物たちが、一斉におばあさんの行く道を開けました。ので、必然的に、あやめとおばあさんの間に、道が出来ました。
道が出来たのにも関わらず、おばあさんの歩みは本当にゆっくりです。あやめの目の前まで来て、おばあさんはようやく口を開きました。
「お主が、靴屋に行っている時に、ワシは女王になったのじゃ」
「なんですって」あやめは、おばあさんの声に耳を疑いました。「女王様に簡単になれっこないわ」
「そうとも、簡単にはなれないね。くじで当たらなければなれないんだから」
「くじで当たるって難しいことなのかしら」そもそも、くじで、女王様を決めているなんて、初めて聞いたので、あやめは自分でも女王様になれそうな気がしてきました。
「唐突に女王になったので、服が間に合わなくてな。壁にあった布を外套代わりとして巻きつけたのじゃ」
おばあさんが、照れながら外套のすそをちょんとあげて、お気に入りの格好をとったので、あやめも、嬉しくなりました。
「まあ、素敵。とても似合うわ」
「さあ、みんな、踊るのじゃ」とおばあさんが呼びかけたので、辺りには、大きな歓声がわき上がりました。
動物たちが、思い思いの格好や、拍子で身体を揺らすので、あやめもうきうきしながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねました。
第十四章 王子様の目覚め
あやめは、しばらく、舞踏を楽しみました。順繰りに、動物たちの手を取り、踊ります。
「靴を仕立てることが出来なくて、申し訳ないね」
一緒に糸巻きに巻き込まれた、狸のおじさんも無事だったので、うれしく思いました。
「いえ、素敵な服を着たり、素敵な靴を履くことが、素敵な時間を過ごすことじゃないんだもの。素敵な時間は、そうね、皆で楽しい時間を過ごすことよ」
あやめは、先ほどのおばあさんにも負けないくらいのとびっきりの格好をしました。
「やあ、やあ」
と、話しかけてきたのは、ハクビシンでした。あやめの手をとり、軽やかにお辞儀をします。
「どうだい、楽しんでいるかい」
「ええ、とっても、素敵だわ。こんなに舞踏会がこんなに楽しいなんて知らなかったわ」
「それは、結構結構。ところで、招待していただいた王子様にお礼を言ったかい」
「あ、そういえば」あやめは、あまりにも楽しくて、王子様に会う目的をすっかり忘れていました。
「王子様に会ってないわ。一体全体、王子様が『誰』なのかわからないのだもの」あやめは、楽しそうに踊っている動物達の顔を見回しましたが、わかりません。
「そうかい、じゃあ、王子様の伝言を伝えておくね。『私を呼ばないで、私があなたを呼ぶから』」
「その言葉、どこかで聞いたよな気がするわ」
あやめが思い出そうと悩むと、「ウーン、ウーン」という先ほどから微かに聞こえていた鼾が、次第にハッキリと響いてきました。
「むみゃむにゃ、ああ、君、君。そんな動きじゃいけないよ。もっと、激しく動かないと」
「まあ、何て失礼なのかしら」と、あやめは思いました。「私が、こんなに動いているのに、眠そうな声を出しているのなんて。それに、私の名前はあやめだわ」
「おお、そうかい、あやめ。足をもっと動かして、そうそう、そうそう、その調子で」
あやめは、自分の名前が呼ばれたので嬉しくて、更にぴょんぴょんと飛び跳ねました。
すると、あやめが飛び跳ねるたびに、どんどんと身体が沈んでいきます。いつの間にか、動物達の足元を見上げていました。
「もっと、もっと」
声につられて、更に激しく飛び跳ねると、たくさんの足たちが、ぐんぐんと空高くに飛び立っていきました。
第十五章 正しい猫の背中に乗って
空かなたの足たちから、視線を前に向けると、黄色い野原が、目一杯に広がっていました。
まだらな石畳の一本道を、ぐんぐんと突き進んでいたのでした。
「まあ、いつのまに、猫の背中に乗っているのかしら」あやめは、狐につままれたように驚きました。
「あやめ、目が覚めたかい」
と、大きな猫は、走りながら、呟きました。
「あら、この声は、先ほどの眠そうな声。私には、あなたの方が、眠りから目覚めたように思えたのだけれど」
「ふふふ、どうだろうね」
「私に呼びかけてきたのだから、あなたが王子様かしら」
「ふふふ、どうだろうね。更に、速くなるよ。つかまっていてね。『今度』は、振り落とされないようにね」
そういうと、猫は、更に加速していきます。
速くなればなるほど、辺りがはっきりしていって……。
第十六章 黄色いブランコから落ちる
勢い良く、あやめは地面に尻餅をつきました。あまりに痛いので、とっさに、周囲を見回しました。
そこは、あやめの馴染みの公園の風景でした。どうやら、あやめは、黄色いブランコの板から落ちたのです。
「振り落とされないようにって言われたのに、ブランコから落ちるなんて、何てけったいなことでしょう。でも、ブランコにずっと乗っていたのかしら」
あやめは、不思議に思い、首をかしげました。というのも、先ほど体験した記憶が鮮明に残っているからです。なので、自分がブランコから落ちたと同じくらい、おばあさんのことが気になりました。
「おばあさんは、あんなに激しく動いて、腰を抜かしてしまわないかしら」と、心配しながら、立ち上がり、あやめは、スカートの砂を払いました。
「いけない、おばあさんは、女王様だったんだわ。女王様って、呼ばないと」
黄色の世界に行って来たことを思い出しながら、わくわくする自分に気づきました。
「そういえば、ヤギ先生にもらった招待状を渡すのを忘れていたわ。でも、一体全体、誰に渡せばよかったのかしら」
あやめは、そう思いながら、紙を取り出すと、不思議なことに、そこに書かれていた文面がかわっていたのでした。
「あやめ様へ 『黄色に魅せられて』いただき、ありがとうございます」
平成十七年三月一日