ナヤメルアクマ

悩める悪魔

あなたは結局──あなたですな。

何百万本という縮れ毛を植えた鬘を被っても、

何尺という高い竹馬に乗ってみたところで、

つまりあなたはあなたですな。

 

ゲーテ 『ファウスト』 高橋義孝訳 1806行~1809行

 

 書斎は、いつもながらの寂れた影に埋もれていた。そこの住人──時代そのものは、少々たまりがちになった埃に嫌気をさしながらも整然と佇んでいる。

 本という代物よ。彼には、激動の遍歴が、不可思議な、不規則な羅列によって刻まれている。我々は、それらの文字を読み取ることによって、漸くかつての凄然たる歴史の数々を、また架空の世界の情景を感じ得る。なるほど、本は語る──あの英雄を。栄光を。神話を。物語を。狂おしき著者の肉声を。──

 しかし、歴史群は、この暗がりの書斎にいる。かつて、太陽の下で踊り狂った彼らが、本というのに閉じ込められた途端、日に褪せるのを恐れなければならぬとは、何たる悲劇であろう。彼らの輝くのは、彼らの媒体である本が、その聞き手と対話すること以外にはない。畢竟、この書斎の持ち主によって選ばれたときにおいてのみ、彼らの存在意義の生じるのである。

幽かに揺れる蝋燭の光が、いたわるように机の上の本を濡らしていた。古ぼけた紙をあたたかく照らしていたのは、蝋燭の光ばかりではない。本全体を覆いながらも、半ば彼方を覆う如くの老人の目──その温厚な視線が、掠れた文字の合間を縫っていたのである。この老人の読むという行為に、一体全体どれほどの悠久たる時間の注がれてきたというのであろう。彼の指は、何か独特の厚みをおび、定期的に頁をめくるたびに、快活な音を響かせた。老人によって幾度と読まれている為であろうか、全頁の淵のほとんど同じ箇所は、疎らに黒ずんだ手垢が勲章の如く煌いている。

 老人は、どれほど本に馴染もうとも、本を軽んじたことはない。本は、読まれるたびに、味わいを増す。そうして、老人の不安をも深める。老人によって読み返されるほど、当初抱いていた老人の印象とかけ離れてゆく。にもかかわらず、そのことが老人の楽しみでもある。どれほど思慮深い賢者が、愚かしいと思しき内容のくだりを指摘したとして、はたして、作者の心境、真の意図を手にとるように知ることなどできようか。本の中に息づく理念、格言的語は、本の中に無数に息を潜めている。それらの高貴な光は、宝石のそれとは違い、素朴さをかねそろえている。誰もそれを汚すことができぬし、また、汚そうとするものの前には、光の陰影すらも見出せないであろう。

 老人の顔ばせに注視すると、手の単調な動き──寡黙な眼差しと反するように、極微妙であるが、変化を模様している。その表情は老人の心境を語るのに十分に違いなかった。特に留意すべきは、その白い髭を蓄えた口元である。右につりあがらせたと思えば、急に窄める。唇全体をむき出したかと思えば、思慮深く顎鬚を気にしている。一連の動作は、何か会話をしているようでもある。が、決して声を出しているのではない。そもそも、この書斎には、埃の発つのも響かなかった。口の動きは、恐らく、本との無言の対話であろう。少なくとも彼の顔ばせは、旧友との再会を思わせるほどの清々しさを呈しているのである。

 老人の脳裏には、本に触れて出来上がった空想の原野の広がっているはずである。それを創り出すのは容易ではない。この行為には並々ならぬ集中力を注がねばならぬ。老人の飄々と頁を捲っているその姿は、彼の何十年と本に親しんだ所以である。そんな彼も、空想を創るのには、特定の環境の中にその身を投じなければならぬ。第一に、騒音が合ってはならぬ。第二に、空気の乱れがあってはならぬ。第三に、時間を感じてはならぬ。こうした環境においてのみ、彼の中に独特の世界の構築されるのである。ちょうどこの書斎が、そのすべての要因を満たしているのは、必ずしも偶然ではない。

 いつもならば、老人のこのままの姿が、延々と続くはずである。しかるに、この日は、まったく予想だにし得ない事件が間も無く、老人を襲うのに違いないのである。

 ──突如、耳障りな騒音の轟いたために、老人の厳かなこの行為が中断されるのを余儀なくされた。その雑音は、この書斎の唯一の扉が開かれる際に響く、独特の軋みであったのに違いない。老人は、不快になり、たった今読んでいた本を閉じてしまった。悠久なる空想の領域が、その音につられて脆く崩れ去ってしまったのである。

「婆やかね。」

 老人は、扉のほうを振り向きもせずに、上ずった声を無愛想に暗がりに投げかけた。「もう食事の時間などということは、ないはずじゃろう、云々。」

 老人が、そう言ったか否かのうちに、くだんの扉は勢いよく閉められ、それとともに、騒音が勢いよく部屋の至る所を震撼させた。それと同時に、老人を憤慨させたのは言うまでもない。

「何と言うことだ。何と言う悪戯だ。まったく、けしからぬ、云々。後でよく言っておかねばならぬ。──いや、まてよ。曾孫の奴かもしれぬ。まったくけしからぬ、云々。」

 そこには、先程までの温厚な老人の目はなかった。彼には、読書というのが、近年においての唯一の楽しみであった。純粋な行為を汚された老人の心中の穏やかなはずはあるまい。

 さて、足音が、徐に近づいて来るのを確認すると、いよいよ老人の怒りが頂点に達した。彼は、本という財産を彼の唯一の所有としたいが為に、数十年というもの、誰もこの書斎に招いたことがなかった。──あるいは、彼の並べた本の分類によって、彼自身を評価されるのを恐れたのかも知れぬ。書棚の本の中には、大衆的な分野のものもいくらか含まれていた。今では、それを恥に感じていたが、青春時代には、輝かしい物語であったのに違いなかった。勿論、それらの本は、払拭できぬ褪色という埃に覆われていたのだが──かといって捨てるのも忍びない。

 とにかく、この書斎に侵入したものを捕らえねば、老人の憤怒を抑えることなどできまい。老人は、杖を頼りに、愛用の樫の椅子から立ち上がった。曲がった腰と、両腕を支える杖と、貧弱な脚を蜘蛛のように器用に動かしながら、ゆっくりと扉の方に向かって歩みだした。ゆっくりと、──しかし、怒りに身を任せた老人には、その足並みが、さぞかし速いものであったろう。暗がりの中、入り組んだ書棚の障害をいとも容易く潜り抜けていくと、扉周辺の足音が刻一刻と、老人の耳に大きく、軽快に鳴り響いてきた。

 ──この足跡の軽さは、やはり、曾孫であるのに違いない。しめしめ、この書棚に身を隠し、のこのこと姿を現した途端に脅かしてやろう。──

 老人は、心の中で、そうつぶやきながら、一回りも大きい書棚の影にすっぽりと収まったそうして、歩み寄る音に耳を澄まし、漸く、すぐ手前までそれの来たのを確信して、──勢い良く、──

「わあっ、」

「ひい、い、」

「あ、あ、あ、あく、ま、」

「に、ん、げ、ん、」

 次の瞬間には、二つの影は、石に弾かれたように、飛び上がり、崩れ落ちた。老人は、あお向けに、黒い影は、──悪魔は、うつ伏せに。

 老人の驚き慄いたのも無理はない。というのも、彼の見たのは、確かに悪魔であったのだから。老人の恐怖は、あるいは、先天的なものから生じているかもしれなかった。そう定義づければ、彼の大仰な反応も、納得のゆくのかもしれない。人間は元来、悪魔に執拗な恐怖を抱いている。恐怖の根底が、空想的な産物であったとしても、あるいは、精神的な産物であったとしても。しかし、残念ながら、老人の目の前にいるのは、架空のものではない。何千年来、人間を怠惰に陥らぬように酷使した、正真正銘の悪魔であるのに違いなかった。

 暫く、──どれほどの時間をあお向けになって震えていたのか判然としないほど、老人は、身体を戦慄かせながら、じっと身を潜めていた。その間、彼の何もしなかったと言うのではない。じっと両腕に抱えられていた彼の脳裏には、確かに恐怖の感じていたものの、幾分かの嫌疑のよぎっていた。あの地獄の使者である悪魔が、恐怖の化身である悪の権化が、何故に自分を見て驚いたのであろうか。そうして、何故に今も自分と同じ様に、恐怖に打ち震えているのであろうか。──

 老人は、全身ぶるぶると震えながらも、頭だけをゆっくりと、まるでブリキ人形のそれのように起こし、あちら側に弾け飛んだものをそっと覗き込んだ、──間違いない。それは、確かに悪魔であった。だが、どうであろう、悪魔と呼ぶには語弊を招きかねないほど、頗る脆弱な体は。外見は、確かに悪魔であった。黒光りの生ずる紫の肌は、この暗がりの中で、一層滑らかさを研ぎ澄ましている。頭からは、角がぬっと生え、こちらに向かって伸びている。背には、刺々しいほどの羽が──翼が伸びている。尾もある。──悪魔に違いあるまい。だが、どうであろう、先程、仰向けに転び落ちた悪魔は、今では、もう団子虫のようにうつ伏せに丸くなって、老人よりも深く、地に頭を垂れているではないか。老人よりも、一回りも小さいではないか。老人よりも、全身を戦慄かせているではないか。痛々しい文句を吐いているではないか。

 呆気にとられたように、更に老人は、この小さなものを凝視した。──眼界に捉えた対象は、すでに恐怖の化身からかけ離れた存在であった。そうして、それを十分過ぎるくらいに確信すると、老人の心の中から、恐怖がすっかり消え失せて、その溝に、すっぽりが埋まってしまった。握っていた杖を手繰り寄せて力強く立ち上り、悪魔に近寄った。そうして、その杖で悪魔の頭を二、三回突付いた。

「ひい、い、」

 悪魔は、より縮こまり、弱々しい声をあげた。老人は、左手で顎鬚を気にしながら、いきり立った目を悪魔に投げかけた。

「こら、勝手に人の書斎に入りおって。どうしてこんな所に来たんじゃ。」

「ひい、い、」

「聞いたことに答えるんじゃ。言わないと、これだぞ。」

 老人は、ゆっくりと杖を浮かせた。悪魔は、目の前にそれの先端を捉えると亀のように頭を引っ込めた。

「ひい、い。わかりました。わかりましたから、その杖を引っ込めてください。」

「よかろう。」

「──ここに来たのは、まったく偶然なんです。」

 悪魔の応答は、媚を売るようにやつれていた。

「ほほう、どういうことかな、」

「偶然にここに行き着いたのです。私自身、どうしてよいのかわからなかったのです。」

「言っている意味がよく理解できぬのじゃが。とにかく、何か悩んでいるのかな。悪魔でも、悩むということがありますのかな。」

「ありますとも。悩みなんて消えるものじゃありません。一つ消え失せれば、その解消した物事から、また生じる──そういうものでしょう。悩みがなかったら、それこそ単調な人生となり、生きている意味などなくなってしまいます。起伏のない人生なんて──しかし、悩み続ける人生なんて。」

「ほほう、悪魔にも、悩みがあるとは。その悩みというのを聞いてみたくなりましたな。」

「貴方が、私の悩みを聞いてくださるですって、貴方ほど慈悲深い人間がいるとは、──まったく世の中、捨てたものじゃありません。人間によってされた事を、人間によって解決されないことはありません。貴方に悩みを打ち明けたなら、漸く、私のこの現状から解放されることでしょう。」

「ふむ、儂は、それほど賢い人間ではないが、頼りにされるというのは満更悪い気がしない。悪魔に相談を持ちかけられるというのも、奇妙なことじゃが、──よし、その悩みというのを聞いてやろう。だが、その前に椅子に腰掛けさせてもらえぬかな。──まったく、今日ほど激しく動いた日は久しいわい。──」

 

「──どこから話したらよいものか、とにかく──私が、この地上に出てきたのは、ほんの半日前のことです。私は、今日の今日まで、ずっとこの地上に出てくる機会を窺っていたのです。というのも、我々悪魔は、どれほど人間を不幸な目にあわせるかに価値を見出すのです。が、どうやら、私は半人前の悪魔らしく、なかなか『悪魔採用試験』を通過することのなかったのです。そのために、私は、この地上にすら来ることのできなかったのです。この試験というのは、──そうですね、ちょうど人間の世界では『受験』みたいなものでしょうか。とにかく、その試験に通過しなくては、一人前と認められないのです。勿論、それに必ずしも通過しなければならないということではありません。が、私には、親の体裁を保つ義務、──というのも、私の祖父は、日本に煙草を齎したかの有名な悪魔であったので、その光明を汚すことなど許されなかったのです。」

 老人は、しげしげと頷きながら、顎に蓄えている髭を入念に撫でた。左肘を机につけ、奇妙なほど、背筋を丸めている。悪魔は、老人の向かいの机にはかけず、傍らで正座をしている。老人の豊かな髭を食い入るように見つめたまま、落ち着かない様子である。

「ふむふむ、その悪魔なら知っておる。が、その奸策も、人間にうまくやり込められてしまったのではなかったかな。」

「とんでもない。我々の世界では、叔父は英雄です。生真面目な国に怠惰を助長させたのですから。」

「そういうものですかな。」

 老人は訝しげに顔を歪ませた。

「──そういうものです。とにかく、私は試験に受からないかぎり、地上にも出ることを許されませんでした。この試験というのには、筆記と実施という二種類の方式があります。前者は『どれだけ人間の特性を知り得るか』というための基本的な問題です。が、私のこの段階を乗り越えるのにどれだけの歳月を費やしたというのでしょう。一体全体、人間は何の目的で生き、そして何を想って死に絶えるのでしょう。私は今でも彼らをてんで理解していません。彼らは、日を浴びて活動し、そうして、死人のように休息を取らねばなりません。平等を主張しながら、自由にいがみ合っている様子は、滑稽そのものです。嘘を常套手段のように脇に抱えています。単純を装って、複雑な思考をしています。だのに、単純な罠にもかかってしまうのです。

「──ああ、一体全体、人間とはどういう存在でしょう。しかし、私のこういった疑問は、試験には無用でした。試験では、ただ、単純に、過去の人間の挙動や、行動のパタンを覚えさえすればいいのです。人間というのに疑問を持ちすぎて、──あるいは、親身になりすぎて、知識を得るのに阻害となっていたのでしょう。こういう私を見て、ある友人は、『消化不良を起こしている』と言いました。全くそうかもしれません。『思考に根付かない知識は、有用ではない』といった私の信念など、この現代を生きるには、弊害以外の何ものにもならぬのです。現代では、ただ知識を得たものが『賢い』と見なされます。その後のことなど考え見もせず、ただただ知識を増やしさえすれば、何か得をしたかのような風潮があります。しかし、知識は手段であって、目的ではないのです。どれほど、高名な文句を覚えても、どれほど、天文学的な知識に没頭しても、所詮は自分にとって有用ではない知識は、まったく害になりかねません。」

「そうですかな。」

 老人は怪訝な顔をして、その前方の峰のように立ち塞がる書棚に、細めた目を送った。さも、この書斎が、知識の宝庫であるとでも言うばかりに。

「そうですとも。」

 上ずった声を発して、悪魔は自分の主張に満足げに頷いた。

「悠久なる無駄な時間を費やして何とか筆記試験を通過した私は、漸く周囲を見返す契機を掴んだと思いました。第二次審査の『実施試験』とは、地上にいって人間をどれほど堕落させるかというものです。何の前触れも無く魂を奪うのではなくて、──貴方もご存知かもしれませんが──知的な戦術によって、人間を陥れるのです。畢竟、『三つの願い事』を叶えさせて、堕落させ、その絶望的な魂の比重を測定するのです。当然、比重が重ければ、合格により近くなるわけです。三つの願い事を提示するという行為は、人間の粗悪な部分、つまり、欲望を引き出すのに、もっとも有効です。そうして、三つであるというのが、何よりも増して巧妙な数値です。一つというと、人間は、何にしようかと考えたあげく、懸命な願い事を言いあげてしまいます。また、三つより多くなると、あれこれと言ってしまったあげく、真の欲望を朦朧とさせてしまいます。迷いというのは、純粋な欲望を煽るのに弊害となってしまいます。あるいは、願いを叶えているうちに、その後に起こる悪魔の制裁を回避する願いを考えさせる猶予を与えてしまうとも限りません。

「『三つの願い事』によって人間の堕落した魂を無事に得ることができれば、漸く私も一人前の悪魔となることができるのです。私は、地上に出る機会を窺いました。と、そこへ、ちょうど愚かしい人間が、私達悪魔を呼び出す為に、悪魔儀式をしていたのです。この儀式というのは、地上に正確な魔方陣を描いて、適切な呪文を唱えるというものです。そういった行為をする人間は、己の欲望を完遂することのみを願う、いわば、もっとも絶望に陥りやすいものたちです。彼らの中には、不正確な魔法陣を書いたことを正すだけで、簡単に魂を投げ出してしまいます。というのも、『正確な魔方陣から悪魔の出ることができない』と思い込んでいるからです。はたして、それほど悪魔が非力でありましょうか。人間はその頓狂な勘違いに抱腹してしまいます。残念ながら、我々は、魔法陣から出られないふりをしているだけです。『良い気にさせば、魂おちる』──悪魔の間ではそういう諺もあるくらいですから。──」

「ほほう。」

 老人は、理解したかどうかもわからないような間延びした声で頷いた。

「私は、さっそく地上に出る手続きを天国に申請して──この手続きが無ければ、一体全体どれほどの悪魔が地上を蔓延るというのでしょう──満を持して地上に出向きました。──

「人間の中には、悪魔と天使とが、さも犬猿の仲のように思われているものもいるでしょう。が、我々の認識の上では、とても善い関係であるのです。天使は、悪魔に人間への危害を及ぼすのを依頼します。というのも、人間は、酷使されねば、必ず怠惰に陥ってしまうからです。怠けきった人間は、天国に行くことのできません。ということは、現在の状況を考察すると、ほとんどの人間が地獄行きということになります。天国に行くのは極少数──信仰の深い阿呆共か、日々を食い繋ぐ貧乏人共です。これでは、天国の過疎化が免れません。で、悪魔はこの状況を打開すべく、災害を頻繁に起こし、神への信心を深いものにし、貧乏人を増やすために、絶えず活動しているのです。それでも、怠惰に陥る人間の方が圧倒的に多いので、人間は、悪魔の手をも煩わせているのに違いないのですが。」

「神と悪魔が手を組んでいるとはのう。天国へも、地獄へも行きたくなったわい。」

「人間は、天国を光の満ち溢れているところと思っているようですが、それは違います。天国は、闇に包まれているのです。欲情をおこさぬように。逆に、地獄は、光に包まれています。視覚的恐怖を与えるために。」

 老人は、物憂くこくりと頷いた。

「そういうものなのかのう。」

「そういうものです。──人間にとって、楽園とも言うべきところは、まさにこの地上であるのに違いありません。怠惰で朦朧としているからこそ、その現状を感じ得ないのです。

「さて、私が地上に降り立ったのは、今日の未明でした。辺りは真っ暗でしたが、定期的に配置された数本の蝋燭が、この部屋の僅かな個所を照らし、辺りの様子を窺うことができました。おそらく、私を呼び出した男は、その光で私の足元にある魔法陣を描いたのでしょう──が、それは、憎いほど正確に書かれてありました。

「仄かな光は、やつれた男の姿も映していました。蒼白な馬のような面に炯々と浮かび上がるのは、鋭く釣り上がった狐のような眼です。その間には、ふとぶとと垂れ下がった醜い鼻があります。それを形容するなら、象に踏まれたようです。その下には、肉厚の唇が無愛想に横たわっています。そこから漏れる、ひ弱で上ずった言葉は、どうやら私をこの地上に呼び出すのに必要な呪文のようです。が、その文句は、我々に言わせれば、全く降臨に際して意味のなさないものです。その呪文は、確かに我々の言葉であるのに他なりませんが──例えば、その男が何べんも繰り返し唱えたのを貴方のわかるように訳すと『どうか、私の首を貴方の腕でもぎ取って下さい。そうして、貴方の部屋の飾り物にして下さい』という意味であるから、なんとも滑稽でしょう。

「私は、初めての人間との邂逅に幾分緊張しながら、なおも続く男の文句におかしみを感じていました。そうこうするうちに、男は呪文を唱え終わったのでしょうか、やや疲れた面持ちで、目線を手元に持っていた本から放すと、漸く私の姿に目線を合わしました。男の表情には、厳かな私の姿に恐怖を抱いている兆候が見られました。が、ほとんど、冷静を装いながら、私に向かって言いました。

「『我等が父、悪魔閣下よ。──』その声は、呪文の詠唱のときに受けた印象以上に弱々しく響きました。『悪魔閣下よ。どうか我が願い事を聞き入れたまえ。』

「いよいよ人間を地に陥れることができるのだと思うと、何だか胸の高鳴る感じがしましたが、その表情を見せて、目の前の男に見くびられるわけにはいきませんので、凛と顔を引き締めて、相手を睨みました。

「『よかろう。うぬが願い事を三つ叶えてやる。』

「『──では、まず、私をこれ以上年のとらない身体にして下さい。』

「『それは、不老不死ということかな。』──と言いながら、私はしめた、と思わないわけにはいきませんでした。元来、我々悪魔に不老不死を願った人間は、一人残らず我々に捕らえられ、一生を地獄での奴隷として過ごすように強要されています。なにせ、彼らをどのように扱っても死に至ることはないのですから。そうして、痛覚だけが残っているのだから、我々を楽しませるのに十二分の素質を備えています。それに、この願いは明瞭に禁句に属するものであり、もっとも大罪であるので、私自身としても、実績をあげるのに恰好のものに違いありませんでした。

「しかし、その男の返答は実に意外なものでした。『いいえ、不老不死ではありません。不老だけを願っているのです。一体全体、不死というのに何の魅力があるというのでしょう。我々人間は、命に際限がある故に、それを尊ぶことができ、それを高め、それを酷使し、かつ、それの絶えるまで、絶えず思慮深く生きることのできるのです。不死であったなら、怠惰に抗うために精一杯で、何をするにも魅力を感じることのできないでしょう。それに対して、不老であるということは、どれほどのありがたいことであるというのでしょう。老いることの無いために、物事をじっくりと考察することができます。そうして、物事の顛末を完全に理解できるに違いありません。体の老化を気にせずに物事に熱中できます。そうして、何時でも死に絶えることが出来るのです。ああ、なんて素晴らしい事でしょう。一生のうちを、若さ保ったまま、生活できるなんて。どうぞ、悪魔よ。この私を不老にして下さい。』

「私は、この男の先ほどの片鱗も見せないしっかりとした口調に支えられた主張に、微々たる共感を抱きながらも、不老というのも、存外魅力的ではないことを知っています。愛するものたちの年老いていく姿をみて、苦痛、憐憫、哀愁、といった感情に苛まれるのを免れないでしょう。にもかかわらず、悪魔の私が、この男に示唆するわけにもいきませんので、気のすすまないながらも、叶えてやることにしました。『よかろう。では、お前を不老にしてやろう。』

「そういうと、私は、心の声によってこの男の願い事を神に申請しました。人間の願い事を叶えるには、神への威光を汲み取らねばなりません。いわゆる手続きのようなものです。神というのが、人間の世界の創造者であり、秩序の管理者であるからなのです。が、ここ何千年というもの、神は、大層痴呆症がすすんだらしいという噂です。あるいは、人間の爆発的な増加と暴走によって、急激に多忙となり、疲労困憊になっているのかもしれません。というのも、ここ最近では、神の返答は、『ああ』とか『ほほう』とか、まるで呻き声を発しているかのようです。その声を聞く度に、神が、神の姿そのものの人間を創造したのは、功であったか、あるいは罪であったか、どうも疑わしい限りです。にもかかわらず、なおも神が人間の所業のすべてに面倒をやいているのは、罪を意識しているのか、それとも、深い慈悲であるのか、または、単なる阿呆であるのか──私には、御察しできません。が、少なくとも、私であれば、愚鈍な人間たちの処置に苛まれるなど御免です。」

「ほほう。」

 老人が不意に頷いたので、悪魔はまるで神の申請を聞いたかのような気持ちになってびくりとした。が、老人は、そんなことに気を止めることなく、ぼうっと机に肘をつき、毫も動いた素振りなど見せなかった。

「──とにかく、私が神の返答に符合するように手を掲げると、男の身体は、緑色の光に包まれました。そうして、その光は、数秒後には、全く夢のように立ち消えました。

「『身体に何の変化もありませんね。』男は、困惑を深めながら、自身の身体を見回しました。私は、詰問されないように、早々に次の願いを催促しました。『次の願い事──ですか。そんなに急かさないで下さいよ。ええっと、そうですね。私を美形にして下さい。私は、貴方のごらんのように、馬面をしています。この顔にどれほど嫌気をさしたことでしょう。どうか、この顔を誰もが認める美しい顔立ちにして下さい。』

「私は、このものの願い事に、幾分かの憐憫の情を強めました。というのも、はたして美形であるというのが、どれほどの人間的な価値を高めるというのでしょう。人間は、とかく美に固執します。美しくあれば、何か得をした気になるようです。彼らは、美の基準というのが、自分の内に秘めているというのに気づきません。だから、美に際限が無いことを認識できません。なるほど、この男は、願い事を成就し、一時的には理想的な顔立ちとなるでしょう。しかし、その美によって得られた快楽に、すぐに虚しくなるに違いありません。あるいは、新たな顔への妬みを感じずにはいられないでしょう。そうしたときに、はたしてまともな精神状態を維持できるのでしょうか。私は、彼の人間的臭味に気の毒になりながらも、この男の願いを叶えてやりました。

「『さあ、最後の願い事を言え。』私は、美形になって有頂天になっている男をくじくように最後の願いを急かしました。彼は、そんな私の態度を気にもせず、傲慢な口調で言いました。『そうですね、最後の願い事ですか。何にしましょうか。やはり、最後の願い事となると何にしようかと、悪魔を呼び出した先人達も至極悩んだでしょうね。そうして、彼等の招いたのは、例外なく、破滅であったのですよ。そうして、悪魔は、そんな人間を眺めて例外なく、楽しんだわけですよ。自らの願望によって、自らの身を滅ぼす、そんな堕落した人間の姿を──ね。あるいは、私も、そういった姿を貴方の前に曝すかもしれない。だがね、──』

「そういった後、男は、まるで気でも狂ったかのように甲高く笑い始めました。

「『ハ、ハ、ハ。だがね、私は考えたわけですよ。人間並みの思考を用いてね。先人は、なぜ灰となったか──その答えは明瞭です。滅ぶことを想定しなかったからです。人間の欲が底の無いことを悟らずに、欲の業火に足を踏み入れたからに他なりません。それは、賭博に類似しています。素人は、いっとき儲かっていても止め際を見極めないばかりに、結局損をしてしまいます。やはり、物事には少しばかり分別をつけなければいけませんよね。際限を測るというのは、そこそこ徳の高い行為でしょうが、なかなかどうして軽んじられてしまいます。──

「『おっと、話がそれました。そういうわけで、私は、三つの願い事のすべてを自分のために叶えるのをよそうとあらかじめ決めておいたのです。では、まだ叶えていない最後の願い事、これを誰のために叶えるのか──ハ、ハ、ハ。まさか貴方が今ごろになってその願い事は叶えられない、なんて言いませんよね。悪魔が、契約を遂行することは絶対であるそうですからね。ハ、ハ、ハ。では、いいますよ。耳の穴をかっぽじってよく聞いていてくださいね。私の最後の願い事は、貴方が──悪魔である貴方が、人畜無害になることなのです。私は勿論、私以外のすべての人間に対して全く危害を加えられない身体に、あ、な、た、がなることです。──ハ、ハ、ハ。どうです。人間の思考も満更ではないでしょう。ハ、ハ、ハ。貴方にこの願いが叶えられますか。』

「私は、このとき、真っ青な顔になったのに違いありません。そうして、全身から、泥のような冷や汗を垂らしていたのに違いありません。といっても、真っ黒な肌ですので、その様子を悟られるようなことは無かったのでしょうが。──」

 そういったあと、悪魔はちらりと老人の顔を窺った。だが、老人の顔は、依然呆然としたまま、じっとしていて動かない。その姿を一瞥して、悪魔は気を取りなおしたように話を進めた。

「──蝋燭のひだまりの中に浮かんだ彼の朧気な面は、不気味に笑いながら揺れています。先ほど与えられたばかりの仮面にどうして私が脅かされねばならぬのでしょう。私が、混迷したのは、いうまでもありません。どうして、このような難問が私に突きつけられたというのでしょう。このとき、悪魔の私が、平和主義者の忌々しい天使にすら縋りたいと思ったのだから、私の精神状態を判っていただけるでしょう。──

「男は、私の狼狽のさまを見て、再び、あの引きつった嘲りを放ちました。このあとに発せられる恐るべき文句を、一字一句まで、記憶しているということが、あまりにも、理不尽でなりません。悪魔には、絶大なる記憶力が備わっています。しかるに、その記憶の恩恵を弊害以上に受けることがほとんど無いのは、私が至らないためでしょうか。──

「『ハ、ハ、ハ。自らの首を自らで絞めねばならぬとは、悪魔にとっても苦痛でしょう。でも、安心してください。貴方に死を要求しているのではないのですから。ハ、ハ、ハ。私も悪魔ではないですからね。おっと、悪魔の方の前で、この引用は頗る失礼でしたね。そうそう、私は、貴方を追い詰めているのでは決してないのですよ。ただ、私は、私を貴方から守るために否応無く、貴方にこの願いを突きつけたのにすぎぬのです。貴方の見地のほどか知りませんが、私の国には「窮鼠、猫をかむ」という諺があります。この、世間的意味は、鼠でも、追い詰められたら、自分よりも数倍の身体を持つ猫にも噛み付くというものです。おっと、貴方が鼠のような存在であるとは言ってませんよ。私の言いたいのは、この諺から学ぶべきことは、追い詰められたら、噛み付きなさい、というくだらない解釈ではなくて、相手を決して絶望に追いやってはならないという、猫にとっての警句なのだ、ということです。そもそも、歴史的に紐解いて見ても、最も輝かしい栄光を掴んだものは、絶望を体験し、希望を見出したという経緯があります。希望は不幸な人間の第二の魂であるのは、その名言の響きからも明らかです。と、知れば、私が貴方を絶望に追いやることで、万が一にも、危害を蒙る可能性があるのは、否定できません。仮にも、悪魔である貴方は、人間よりも数段賢いはずなのだから。──

「『そこで、私が模索したのは、いかに悪魔に絶望させないか、ということでした。死を要求したのなら、悪魔そのものを敵に回すことにもなりかねません。かといって、貴方が私だけを見逃す存在になっても、私の周囲のものを脅かし、誑かし、私を陥しめんとするのは目に見えています。で、あれこれ悩んだ挙句、人畜無害というのを思いついたのです。ただ、気がかりなのは、この人畜無害という存在が、悪魔を絶望に追いやってしまうのではないか、ということでした。というのも、悪魔は、人間に危害を加えることが仕事ですからね。そこで、私はあらゆるものの認める人畜無害、畢竟、大衆が認める愛玩動物である犬を──それと長時間接するのは、私の精神に頗る苦痛を与えましたが──じっくりと観察することにしました。──』」

犬と聞くと、老人は何かに取りつかれたように、身体を戦慄かせたのち、大きく二回程首を横に振った。どうやら、頗る不快な気分に陥ったらしく、「うう、」と、二度ほど呻き声に似た、溜息を漏らした。

「『犬の素行は、ああ、なんとも愚かしいものでした。まず、あの奇異な叫び声で人間を呼び寄せた挙句、何をさせるかと思えば──ハ、ハ、ハ、人間様を従えて近所参りに行きたがっていたのです。百獣の王の尻をどうどうと追随する狐──いやはや、畜生に連れられて歩く猩猩の威厳に満ちた顔ばせは、なるほど堂々として、褒め称えるにあまりあります。そおら、お犬様の周りを卑屈な人間どもが避けていきます。なんとも、頼もしい姿ではありませんか。さて、お犬様はどこへ行くのだと伺っておりましたら、どうやら用をたしたかったのでしょう──この用をたす、という言葉の響きにあらゆる人間の知性が満ち溢れているかのようです──ちょっとした空き地の物陰に隠れてそそくさと、浅ましき所業を行う始末です。その頃、手綱を握り締めたお方は何をしているのだろうとちょっと拝見すると、──ああ、何事も無いように、まさに素知らぬふりをして、きょろきょろとあさってのほうを眺めていました。彼の視界が、決してある看板を捕らえないことを私は注意深く拝見しました。きっと背丈の高いおかげで、数年間というもの、足元にささったその看板が、眼界に入らなかったに違いありません。いや、私はそう信じる以外に考えられませんでした。でなければ、このような場所で──ここはペットのトイレではありません、という看板の近くで用を足させるはずがありません。あるいは、「ここ」とは、看板の所在であって、その空き地全体のことを指していないと解釈したのでしょうか。とにかく、その一連の行動を終えると、お犬様はとうとうお帰りになって、何事も無かったように、我が家にお戻りになりました。

「『私は、その観察を数十日と観察し、ほとんど徹夜で悩んだ挙句、人畜無害が、周囲にとって、さほどの危険な存在ではないと判断したのです。で、私は、人畜無害というのにも、定義が成り立つのではなかろうかと推測できたのです。それを列挙すると、一つは、人畜無害は、無害であるという前提の基づいて成り立っているということ。一つは、人畜無害であるためには、それなりの権利が補償されていなければならないこと。一つは、人畜無害の所業は、一見害であったとしても、社会的な黙殺により、その行動を肯定できるということ。これらの発見と裏付けにより、私の以前の人畜無害への認識が大きく揺らぐと同時に、紛れも無い確信を得たのでした。

「『私にとって、犬の存在は明らかに害です。しかし、一般世間にとっては、この存在は、たった一つの要因として、つまり、最も従順な愛玩動物として、──何千年も続いた身分制度の最も下の地位を占めるものの代替として、肯定されているのです。メフィストテレスに連れられたあの作者が、この現代に降霊して言ったそうです。──何てことだ。現代では第3次囲い込みが行われている。後進国の人々よりも、犬のほうが繁栄しているのではないか、と。なるほど、その御指摘は正しいかもしれません。犬は、その慰みという身分を肩代わりし、かつ、我々のほとんどを欺いているのです。──』」

「ふうむ。──」

 老人の口から、頷きの如き空気が漏れた。或いは、老人もゲーテと同様に、犬に嫌悪感を感じているのかもしれない。

「『さて、犬は、有害であるにもかかわらず、それを補うに余りある愛玩動物としての役割があり、このことは、あらゆる人畜無害の必要条件ではないかと考察したのです。で、ここまで理詰めしてしまうと、悪魔閣下に対峙するにあたって、どういうべき処置を取り得るべきかという大いなる前提条件として、やはり、人畜無害としての定義が無くてならないという気がしてならなかったのです。で、私は、大きな賭けに出ました。人畜無害が、有益性を含んでいるが故に定義付けることができるように、人間にとってまた、悪魔にとって功利の部分を残しておく必要があらねばならない、──つまり、悪魔閣下にとって、最も、人間に対して有益であるべき三つの願い事という能力だけは、取り除くことがあってならないと。これゆえ、貴方は、残された能力を有効に使用し、人間を誑かせさえすれば、もとの身体を取り戻せる可能性が生じてくるのであろうし、私のもとに舞い戻り、復讐する機会を得る可能性も十二分に残されているのです。人間にとって、悪魔のその所業は害であるに違いませんが、願いを叶えることができるだけのための存在であるというなら、どんな賢人さえも、その存在に対して首を横に振るはずはありません。第三者に言わせれば、この賭けが大層危険であるように思われるでしょう。悪魔が人間を欺くのはきっと簡単でしょうからね。──』

「そういうと、男は、私のほうを伺いながらにやりと笑みをこぼしました。やがて、その笑みが卑屈な笑い声となるまで、私は凍りついたように、微動だにできませんでした。

「『ハ、ハ、ハ。貴方は、力が残されていてしめたものだと思っているでしょう。だがね、絶望しないということが、貴方の道にどれほどの弊害となって降りかかってくるかをやがて知ることでしょう。余計な力が残されているために、それしか頼ることのできぬ惨めさをやがて知るでしょう。私に示唆された道の上をとぼとぼと──まるで、ボールペンの線の上を単純に進む蟻のように、何の疑いも無く、ぐるぐると解決から遠のいていくことになるのをやがて知るでしょう。窮鼠にもなり得ぬ自分に腹立たしさを感じながらも、──おっと、ちょっと口数が多すぎましたね。雄弁というのは、結局何の解決も生みません。実行だけが、最善の解決方法ですからね。──さあ、悪魔よ。最後の願い事を叶え給え。貴方が三つの願い事を叶えることしかができない人畜無害な存在となることを。』

「私は、途方にくれてしまいました。何という厄介事が自分の身に降りかかったのだろうと嘆きました。が、悔しいことに、口惜しいことに──お話するのも恥ずかしいのですが、男の言うように、僅かながらの力が残されたことをしめたと思ったのも事実です。故に、この時、まったくの絶望に至ったのか否かは疑わしい限りです。『自分が悪魔なのだから、人間程度などすぐにでも欺けないはずは無い』などという、少々の自惚れによって、絶望の淵を俯瞰することのついぞ無かったのかもしれません。結局のところ、私は、この男さえも欺けなかったのですから。そうして、男の奸策通りの結果となったのです。若干の躊躇の後、私は、しぶしぶ男の提示した条件を飲み込みました。この願いを申請したときの神の返答が『ううむ、』と言っただけであるというのは、あえてここで非難してあまりあると思うのですが。──」

「ふうむ、」

 老人のその応答は、やはり神のそれを思わせたので、悪魔は再び、ぎくりと驚いた。が、老人の姿勢を確認すると、気を取りなおし、少々脆弱な声で話しを続けた。

「──さて、この前後のことはもう話さずとも良いでしょう。貴方の御察しのとおり、私は醜い姿となり、男は当然の如く嘲り笑ったのです。これほどの屈辱が、これほどの薄幸が──これほどの悲劇があるでしょうか。怪しげな蝋燭の光のゆれも、一切の闇さえも侮辱に感じられたほどです。たかが何千年という歴史を誇らしげに語る愚かな地上の蛆に、我が自我の首根っこを掻き毟られるとは──。ええい、うっぷんのすべてを忘却の井戸に葬り、雑念という筧で卍掛けしても、私の理念、私の尊厳、私の身体をも、憤怒に、恥辱に、はたまた幻滅に絡めとられ、乱れ乱れて、あらかた空蝉に残っているのは虚栄そのものでした。卑猥な身体となったものを懸命に支えていたその棒状の誇り──悪魔の象徴とも言える角は、つかつかと近づいてきた男に掴まれ──そうです、私はあらゆる滑稽なもの、愛くるしいそのもの、つまりは人畜無害となったのです──あたかも当然の如く、豪快に開かれた夜明けの窓から放り出されました。男のありがたい賛美歌と共に──『もう、貴方には用はありません。何処とへなりといくがよい。──』

「私は、半刻ほど、呆然と荒々しい草叢に尻餅をついて苦渋に満ちていましたが、『刻が解決してくれる』とはよくいったものです──やがて晴れ晴れとした心持で歩き出しました。というのも、『三つの願い事』を叶える能力が失われていないことに解決の糸口を見出したのです。たった微量でさえも能力が失われていないのなら、それを有用に活用しない手はありません。少しばかり考えを巡らせて蓋然性を弾き出しても、やはり私のほうが人間より分のないはずはありません。

「仄かに白んできた空を忌々しく思いながら、報復を唇に噛み締め、えいとたちあがった後、歩き出しました。といっても、まだ早朝だったので、幸い辺りを見回しても人影が見当たりません。勿論、このような状態は好都合でした。というのも、人間の大衆に出会うものなら、集団特有の異様極まりない思想で──危惧に陥った衆愚に生じうる禍禍しい黄金の権力で私を捕らえ、裁くのに違いありません。にもかかわらず、人がまったくいないと私の助かる術もないわけで、とにかく都合の良い人間がいないものかと、周囲を窺いながら、とぼとぼと歩いていると、どこからか異様な、劈く匂いが漂ってくるではありませんか。こんな朝早くに、何という残酷な所業をひけらかしているのかと、血生臭く漂う匂いにつられて行くと、──そこではパンを生成しているのでした。神の肉片も大量生産している時代なのかと、関心を半ば、訝しさを半ばで、様子を覗おうと窓の外に飛び乗ると、その拍子に物音を発ててしまったらしく、途端に、建物の中の男に気付かれてしまいました。

「『こら、何をしている。さっさと中に入ってきて、手伝わんか。』──そう怒鳴りながら、丹念に生地を撫でています。幸いにも、男はこちらを確認しませんでした。私は、しめたと思わずにはいられませんでした。この主人は、どうやら他の人間と私を勘違いしているらしいのです──よりによって、悪魔の私と。そうして、勘違された対象は、どうやらこのパン屋の従業員であるのは疑いないでしょう。

「私は、神の額を目の上のたんこぶに感じながらも、絶好の好機をかみ締め、勢いよく扉を開けて──もっとも、すでに短躯でしたので、扉をあけるのも一苦労でしたが、──部屋の中に入るのになんの躊躇いもありませんでした。

「『また遅刻しやがって、お前はどれほど偉様なんだ。今度やったら減給だから覚悟しておけ。』

「『は、はい。』

「『風邪をひいているのか。声が上ずっているが──まあいい、小麦粉を取ってくれ。』

「『は、はい。』

「どうやら、元来、私に染みついていた挙動不審が、いみじくも、勘違いされた従業員と酷似していたらしい、というのは、重ね重ね幸運でした。──ただ、即座に返事はしてみたものの、小麦粉の袋の位置などてんで知る由もありません。そもそも、この短躯では、探しようもできません。人間は、自分の融通の利くものを思慮の届く範囲──畢竟、人間自身の目線に入るべき所に配置します。故に、人間の腰よりも小さく縮んでしまった私が、小麦粉の袋を確認できるはずがありません。

「しかるに、このときの私にひらめいたことといったら、まったく今まで絞ってきた知恵の中で、最上のものであったのに違いありません。『ええっと、それは、三つの願い事のうちの一つですよね。』

「『何を寝ぼけたことを言っているんだ。いいから、早く小麦粉を取ってくれ。』

「私は、しめたと思いながら、右手を掲げました。すると、やはり、三つの願いを叶える程度の力が残されていたようで、この願いを滞りなく神に申請することができました。

「『どうぞ。』

「『おう──』そういって、傍らに置いた小麦粉を小器用につかみながら、もくもくと作業を続行し始めました。『──えっと、次の願いは何かありますか。』

「『自分から、言ってくるとは、大層気が利くようになったじゃねえか。頭でも打ったのか。はっ、そうだな──』そういって、男がちらりと後ろを振り向いたのでひやりとしましたが、どうやら、外の様子を見て、時刻を確かめたようでした。私は、幸い、この主人の足元にいましたので、その一連の動作の眼界に入らなかったのです。灯台下暗し、脚下非照顧とでもいいましょうか。しかし、そもそも、私──いや、勘違いしている人物に振り返るという気さえもなかったのでしょう。主人は、窓の方を眺め、焼き釜をちらりと見た後、再び恒例の儀式をし始めながら、こう言いました。

「『あまり時間がないな──。とりあえず、いま焼いているやつをあげてくれ。』

「『は、はい。』といっても、私の今の身体では到底手が届きませんでしたので、やはり魔法に頼らざるを得ませんでした。この魔法もあまりにも造作無く作動しましたので、実は私の魔力が削がれていないのではないかと思い呪文を詠唱してみましたが、何も起こらず、おまけに何を暈けているのかと主人にどやされる始末でした。

「願いを神に申請しますと、パンの載っている鉄のトレイは、羽でも生えているかのごとく宙に浮き、ふわりふわりと、棚に並んでいきました。

「さて、人間である貴方は、魔法がとても素晴らしいかのごとくお思いでしょう。しかし、魔法を使用できる私にとっては、そんなに大したものじゃございません。というのも、それは極あたりまえのものに過ぎぬからです。蓋し、人間の愛というのは、どれほど掛替えのないものでしょう。そこから生じるすべての愛くるしい現象──畢竟、情熱、失恋、嫉妬、はたまた快楽にいたるまで、狂おしいほどにいとおしく感じられます。

「そのようなものをどうして人間が損なうというのでしょう。悪魔のその過程は、まったく醜悪そのものです。

「女性は男性に対して一方的に『魅了』の魔法をかけ、選別します。優秀な子孫を残すためだけに相手を探すのです。故に、私のような落ちこぼれには、見向きもしません。また、私のような子供を産んだ母も惨めでなりませんでしょう。悪魔の女性は、子供の優秀さを、一生の誇りとして位置付けるからです。

「それ故、我々に愛というものは存在しません。どれだけ敬虔な魔法を見出したとしても、それに替わるようなものがあるとは到底想像できません。愛を有するものには、愛の描く緩やかな軌跡が見えないでしょう。しかし、私は人間にその存在を認めることができ、──そうして、それに焦がれているのです。私が人間に対して親しみを感じるという一つの要因が、まさにそこなのです。『愛』と『魔法』というものの双方が公平な天秤にかけられたのなら、はたしてどちらに比重が傾くというのでしょう。──私にはわかり得ません。勿論、他の悪魔にも、人間にもわかりっこないでしょう。それは、全能なる神のみが知るのかもしれません。が、愛に重きをおいている方は、おそらくそんなにいないでしょう。人間は、魔法により、愛などというものは、どうとでもなると思うであろうし、悪魔には愛の良さをちっとも理解できないでしょう。──こんな私も、実質的な愛を取り違えているのかもしれません。虚構の愛を見出しているに過ぎないかもしれません。が、どうであるにしろ、美しいものであるのにかわりないのです。さらに、その双方を推し量るなら、魔法が怠惰を助長するのに対して、愛が好奇心を触発することがあげられるでしょう。魔法を身につけた人間は、必ずといっていいほど、怠惰──あるいは、虚無のため、身を滅ぼしてしまいます。それとは逆にもし、悪魔が愛を身につけたのなら──一体全体どうなるというのでしょう。勿論、知る由もありません。が、予想できないことでもありません。

「おっと、話がそれましたね。とにかく、私がここで魔法を用いることができたのは、『三つの願い事』として、申請したのにほかならぬのです。ふわふわと浮き上がった最後のプレートが、丁寧に机に降り立つのは、何処か格調の高い白鳥のそれを思わせました。

「さて、ここで、最後の願い事を叶えさせるのに、私には驚くべき画策が芽生えていたのです。私は、今日までせっせと生きてきましたが、ほとんど、この知恵を搾り出すためであったといっても大袈裟ではないほどの、絶妙なものであったのです。

「『えっと、最後に──ちょっと、現在体調がよくないので、元に戻りたいのですが。』

「なんとでも解釈できる巧妙な言い回し──ああ、しかし、これがいけませんでした。その失言が、おそるべき願い事を誘発することになったのです。

「『何だって、最後だと。やはりまだ寝ぼけているようだな、この若僧め。もう一人前の顔をして、自分の仕事を打ち切れると思っているのか。お前には買出しの仕事も、釜磨きも、数百個のパンの取り出しも、──まだまだ、やらねばならぬ仕事が山ほどもあるんだ。そんな不貞腐れた気持ちでパン屋が勤まるとでも思っているのか。お前のような奴は、十年は俺の元で働かないと、大成できないぞ。云々──』」

「こんな状況下においてもこの男がパンを捏ねているほどの職人肌であったのが唯一の救いでした。が、とんでもないことをふっかけられたのは言うまでもありません。男の言うことを願い事であると認めてしまうと、──恐ろしいことですが、私はこの男に十年と服従しなければいけないのです。彼は未だ私を弟子と錯覚しているのでしょう。にもかかわらず、私がそのくそったれの小僧を演じたために、恐ろしい契約の只中にたたされたのです。冷や汗と絶望がじわりじわりと押し寄せ、私を飲み込もうとしたその瞬間に──ああ、何という幸運でしょう。喧喧囂囂たる音と共に、私は急死に一生を得たのです。

「『親方、遅れましてすみません。──』『なに?』さすがにパン屋の頑固親父も動転して振り返りました。

「『すみません、親方。遅れまして。その──えっと、あの時計が──にわとり型のおんぼろのやつが、にわとりの形をしているくせして、定刻時間の朝にもかかわらず鳴らなかったのです。あんまりでしょう。』

「『なんだって?』

「『は、はい。ですから、にわとりのくそったれが──』

「勿論、私はこの好機に乗じて、扉を半開きし、呆然と佇んでいるくそったれの若僧の横をくぐり抜け、そそくさと逃げ出したのは言うまでもありません。

「さて、辺りはすっかり明るくなっていました。私はすっかり意気消沈し、しばらく人目を避けようと思いながら歩いていると、ちょうどひと気の無い公園があったので、とにかくそこを一時的に隠れる場所にしようと決めました。で、そこに点在する様様な遊具の中から隠れ家を造作無く見つけることができました。というのも、隠れるのにもっとなもの──トンネルの形をした小さな穴を見つけたからです。私は躊躇することなくそれに歩みより、中を覗き込むと──ああ、何と言うことでしょう。畜生が──地獄でさえ番犬でしかないあの生物が、まったく誇らしげにゆったりと横たわり、寝ているではありませんか。このとき、私は妙にこの生物に対して憤りを感じました。勿論、私を現状の状態に陥った経緯がその憤怒の大部分に荷担しているのはいうまでもありません。とっさに石を拾い上げ、畜生の頭に投げつけてやりました。が、きゃつは、ひょいとよけるが早いか、私の羽根の一部を噛み千切り、悠然とトンネルから出て行きました。

「私は、人畜無害であるはずの──地獄ですら家畜であるはずの犬が、私にとっては害となったことを神に嘆きました。が、ようやく安息にこじつけたことにより、少々の安堵を噛み締め、真ん丸い、トンネルのカーブに沿って体を横たえると、──疲れていた為か、直ぐにうとうとした気分になり、とうとう浅い眠りに陥りました。

「しかし、安息もそう長くは続きませんでした。けたたましい声が響き渡ったのです。──今から考えると、トンネル内に、音が反響したためでしょうが。

「奇妙な声を発した巨大な生物が差し込む神神しい光を背景に、にゅっと姿を現しましたので、私は身体を横たえながらも、腰を抜かしそうになりました。そのあまりの恐怖のために声が出なかったのがせめてもの救いでした。あるいは、不意を付かれたので、当初何が起きたのかを判断できかねる状況にいたのでした。

「が、一息ついて獣のようなけたたましい声の主をみると、当初見た様相とまったく異なった姿であることが分かりました。それが巨大であると誤認したのは、一つはそれの背後に、トンネルの出口に差し込む光があったこと、もう一つは私の横たわった体制にあったからでした。それはよくみると、なんのことはない、人間の子供だったのです。けたたましい声を発していたのは、子供には良くある現象、つまり無邪気さの表れなのでした。それを知ってしまうと、恐怖から一変して期待に摩り替わりました。というのも、子供ほど好奇心が強くかつ短絡的な対象など他にいましょうか。容易に私の要求を飲むのに違いありません。私は湧き上がる歓喜を噛み締めながら、そっと子供にたしなめようとしました。

「──が、その瞬間、子供は、さらなる奇声をあげて私の身体をぐいと持ち上げたあげく、こともあろうか、私をこのトンネルから持ち出したのです。まぶしい強烈な光が、私の髄の髄までことごとく血を奪っていくのがわかりました。私は、いよいよお仕舞いだ、と悟りました。いくら何でも、これほどまでに大勢の人間の前で、魔法も使えない人畜無害な私が、咄嗟に対処できる方法など到底考えもつきませんでした。私は子供のなすがままになるより仕方が無かったのです。

「『ママ、ママ、見てみて。』この無邪気な子悪魔を、いや子天使を呪いました。

「『あら、どうしたの、これ。』この女の蔑んだ卑屈で冷淡な視線が私を捕らえましたので、全く石の如く固まってしまいました。

「『縫ぐるみ、縫ぐるみ、』

「縫ぐるみ──それを聞いて、私は漸く自分が縫ぐるみのような姿であったのを知りました。ああ、故に、私を呼び出した男にも簡単に放り投げられたし、このような子供にも、簡単に抱きかかえられているのです。そうして、貴方の目に映っているのも、おそらく縫ぐるみのような姿なのでしょう。──」

 悪魔は、犬のような憐れな顔になった。

「『どこで拾ってきたの。汚いから捨ててきなさい。』と母親が子供を諭したのですが、子供は駄々をこねて、母親に食い下がろうします。子供にそれを捨てさせるために発した母親の言葉──その修飾語──は、実に私に対する侮蔑そのものでした。──恐ろしき問答の末に、漸く私は、兎にも角にも、この子供の家に持ち帰られるという羽目に陥ったのです。

「勿論、私の正体が暴かれるという最大の危機を乗りきったのは、まったく幸運に他ならないのでしょうが、この親子の帰宅の際には、子供が、常に私を抱き寄せていたため、私は逃げ出すどころか、身動き一つ取ることすら出来なかったのです。そうこうするうちに、私はこの家族の家に連れてこられました。そうして、私はしばらく子供の部屋で他の玩具に囲まれて、散々な目に遭いました。その様を告白したくはありません。というのも、それは拷問に他ならなかったからです。親にもぶたれたことが無い私が、あのような屈辱を受けることになるとは──。例えば、角を持ち上げられたり、耳を引っ張られたり、口に手を突っ込まれたり、──ああ、思い出したくもありません。ただ、これだけは断言できます。──人間の性根は、まさしく悪であったのです。純粋無垢な子供にいたぶられた私にとっては、そのようにしか思えません。あるいは、私を先天的に悪魔であったと悟り、懲罰を加えたというのでしょうか。──

「拷問から逃れるのには、この暴君の飽きるより他にありませんでした。ただ、幸運にも私が解体される前に、子供の注意を削ぐ誘惑が訪れたのです。そのときの母親の声は、まったく『聖母まりあ』のそれのようでした。

「『おやつができたから、おいで。』人間は、あらゆる活動よりも食欲を愛するのかもしれません。一杯のお茶を飲むためには世界が滅んでも良いのですから。──

「子供は、その声を聞くなり、私を無数に横たわる玩具の中に放り投げ、ハーメルンよろしく、揺ら揺らとその言の葉のほうへ消えて行きました。そのおかげで左肩の脱臼と、肋骨が数本、折られただけで済みました。さて、この好機を逃さない手はありません。私は、ひょいと立ち上がって、とっととこの玩具の墓場を去りました。

「そうして、暫くは、うろうろとこの家の中をさ迷いました。しかして、人間というのは、どうして、こうも人間のためだけの空間を欲するのでしょうか。──私には、地上の至るところに点在する不気味な壁の閉塞感がどうにも好きになりません。人間が、自然を破壊している最も象徴的な存在は、この家という場所に他なりません。地球にこれほど、多くの社会的影響を生み出したのは、神の導きというよりも、人間が人間自身を人間のみの社会空間に追いやった故に違いありません。他の自然環境の内では、てんで脆弱な存在であったちっぽけな存在であったのだが、それでは堪らないと、あれこれと知恵を搾り出しながら、少しずつ、自分たちの確実な生存領域を自然から切り取り、確保し、漸く自分たちの環境を築き上げてきたのです。ああ、──しかるに、このセンスの無い作りといったら何たる様でしょう。機能性ばかりをさんざん特化させた挙句にこの袋小路の殺伐たる無法地帯には、呆れてしまいます。

「廊下を曲がると、不意に黒猫が──多分、この家の愛玩動物なのでしょうが、──飛び出してきたため、私は面をクラって、くらりと倒れこんでしまいました。それを契機に、きゃつが、がぶりと私に食いつき、尻尾の先端をもぎとっていきました。何たる、所業でしょう。──が、ここに至るまで、散々な目に遭っている私にとっては、怒りというよりも半ば呆れたまま、それほど気にやむことなく、へこりと、立ち上がり、さまよい歩き出しました。

「廊下をどんどん奥に進むと、突き当りにはこの家の離れのようなところに行きつきました。そこは物置のようにひっそりとあったので、そこを暫く隠れ家にしようと、扉をあけました。恐ろしく暗い空間の中を進むと、物陰に隠れて襲い掛かかろうとするものがいたのです。──もう話さずとも良いでしょう、その人間は貴方だったのです。」

「ふうむ。」老人は、間延びしたため息を噴出した。──まるで、長い眠りから目覚めたかのように。

「なるほど、なるほど、云々。」

 老人は、しげしげと頷いた。「そういうことだったのだな。」

「私の苦労を分かって頂けましたか。──で、こんな状態に陥った私を不憫に思うならば、どうか、私の身体を──」そういう悪魔の卑屈な嘆願を、老人は、独り言をつぶやくように、覆い尽くした。

「実に面白い。が、お主の話しは少々くど過ぎる。面白い話に違いないのに、──そうそう、そのむやみな素振りが、話しの筋を中断してしまう。過去にもいろいろと面白い経験をしているに違いないが、──それを聴くにも──ふうむ、おぬしの話じゃと、丁度、夕方ごろじゃな。──そろそろ婆やの呼びに来るころじゃて。──だから、わしの興味も、──集中力も削がれてしまうのじゃ、どうにかならんものかのう、ふうむ、」

「どうか、三つの願い事で私の身体を元に──。」

「そうか、三つの願い事を使えばいいんじゃな。──ふむ。それは、良い考えだ。実に良い。そうすれば、お主のその所業を苦にせずに済むし、お主の過去も知ることが出来よう。」

「そうです。それで、私を戻してください。でも、元の姿でなくても結構です。できれば、私を人間に──。」

 ちょうど、そのとき部屋の扉の叩く音がして、悪魔の申し出をかき消した。

「おっと、婆やが来たようじゃ。じゃあ、早くしておくれ、さっさとお主を書物にしておくれ。」

 

 老人は、杖を器用に動かして、扉に向かった。

 ばたんという音と共に扉が閉まると、書斎には元の沈黙が訪れた。

 

平成十二年五月二十二日