ケンケツシャ

献血車

 僕は、普段貧血気味なため献血にご縁が無いのだが、その時分には、何故か白いワゴン車の前で行列に並び、献血を試みようとしていた。その車というのは、よく街中の路上で横付けにされているのと大して違わない。ただ、その時分のそれは、車両の右側ではなく、左側のドアから乗りこむような構造になっている。僕は、献血なんてやりたくない、などと思いながらも、前の人が乗りこむのをじっと待っていた。何故? ──考える余地も無く、前の人につられてそのワゴンに乗りこむ。

 前の人が、入り口に左側に配置された機械から券を引き取ったので、僕も真似してそれを手に取り、中へと進む。車の中は、たくさんの人でごった返し、席がびっしりと埋まっている。そのほとんどが、お年寄りだ。内装は、まるでバスのようだった。券を取るのも、よくよく考えてみるとバスに乗りこむときのそれとまったく違わなかった。

だが、僕はこれが献血車であるのを「知って」いる。あるいは、車内の血生臭い匂いから、「察し」たのかもしれない。

席が埋まっているので──空席があっても、側に座った途端にお年寄りに話かけられるのはタマラナイから、仕方なく、前のほうの平らになっている白い場所に、都合良く腰をかけた。その席はほかの席とまったく異なり、まるで白濁半透明のポリバケツのように透けている。その奇妙な素材で、座席部分から手摺りの部分までがまるで一つのもののように構成されている。で、その中には茶色のものが揺れている。ガソリン? ──僕はつとめてそれを見ないようにした。

その席は、右側の壁に接しているように配置されているから、他の人が前向きの座席──進行方向を向いているのに対して、僕は、横を向いていなければならなかった。この席からだと、この車の入り口付近が良く見える。運転席のほうも見渡すことが出来るのだが、白い幕が降りているため、中の様子を窺い知ることが出来ない。ただ、この座席の配置は、車内の視線の的になってしまうので、どうも居心地が悪い。

僕は、献血車に乗りこむのが始めてあったので、ドギマギしながらも、ああ、こういうものなのだと、頷くよりほか無かった。

外で並んでいたすべての人が乗り終えると、両開きの扉が、がたんとしまった。ヴーン──低い音が轟くと、ワゴンがゆっくりと走り出す。

(あれ、どうして走り出したのだろう? )

訝しがりながら、他の人々の顔を窺うが、誰もそのことに疑問を抱いている様子も無い。ジロリ──複数の眼が僕を貫いたので、ギクリとして視線をそらせた。

ぐらぐらと揺れだし気持ちが悪い。

うつ伏せると、自分の座席の下で、茶色の液体が揺れていた。座席は、何故かほんのりと温かい。ますます気持ちが悪くなった。で、それからも視線を逸らし、運転席の方を見やると、なんと白衣の男が自分をギロリと睨んでいた。その形相があまりにも厳つかったので、僕は再び俯かずにはおれなかった。じっとしながら、この時間が通りすぎてしまわないものかと、ただ祈るより他無かった。

プゥゥゥーゥゥウン──という音が響き渡ったので、僕は何が起こったものかと顔を起こした。周囲を見まわすと、事態は明瞭であった。車内に数ヶ所設置されている<ここで降ります>というランプが赤く点灯していたのだ。誰かが降りるため、それを押したのに違いない。

「次は、『孤独』、『孤独』──。」

 オカシナ名前の停留所だな──握っていた券で自分の乗ってきた停留所を確認してみると、『発狂』となっていた。

車がブンを唸って止まると、白衣の男が幕の中に戻っていき、左方の席に座っていた数名の人が立ち上がって、前方にやってきた。そして、次々と右方の白い幕の中に入っていった。どうにかしてその中の様子を窺い知ろうとしたが、どうにも覗くことが出来ない。立ち並ぶ老人たちの顔ばせの青白さに、寒々しさを感じ取るしかなかった。幕の中に入っていった人は、奇妙にも戻ってくるということは無かった。

(幕の中に出口があるのだろうか? )

行列が止むと、がたんという音と共に再び車が走り出した。

その数分後、どぶぶぶぅ──という奇妙な音を発てて僕の座席の手摺りに茶色い液体が通過していった。

(うあ──。)

 僕は、声にならない悲鳴を上げた。その液体はやがて座席の茶色の液体と混ざり合って落ちついた。それとともに、血生臭い匂いがぷんと僕の鼻をかすめた。僕は、吐き気を覚えながらも、漸く理解した。僕の座っていたのは、血を入れるためのポリタンクだったのだ──と。

 白い幕から白衣の男が再び姿をあらわした。見ると、その男の白衣は、少々赤く薄汚れていた。その男の顔ばせを注視しないようにつとめながら、腰を浮かせてびくびくと恐ろしさを噛み締めていた。

(どうしてこんな席に座ってしまったのだろう。)

 僕は、もうぐっと目を瞑り、この悪夢が醒めるのを待つよりほか無かった。

 幾たびかのランプが点り、その度に車内から人が消えていった。僕の頭上にもそのランプがあるのだが、それを押す気にはなれなかった。それを押すことは、すなわちあの白い幕の中に入っていくということだった。僕には、それが何にも代え難い苦痛に思われた。だが、早くこの車から降りたかった。

(ボタンを押さずして、この車から降りる方法が無いのであろうか? )

 そうこう考えているうちに、車内にはもう乗務員以外誰もいなくなってしまった。

「次は終点『覚醒』、『覚醒』──。」

 どうやらボタンを押さずして降りることが出来そうだった。

 ブン──という音を発てて車が停車すると、白衣の男は白い幕の中に入っていった。もう、その衣服はすっかり真っ赤に染まっていた。

 僕はトウトウ堪忍して立ちあがると、おそるおそる幕をくぐった。中は、恐ろしいほどひっそりとした構造であった。中央に台が横たわるのみであった。

「さあ、おかけになってください。──」

 白衣の男は、先程までの厳つい顔がウソのようににんまりと話しかけてきた。男の口臭から血の匂いが漂った。僕は、背中をゾクゾクとさせながらも、そっと歩み寄って、男の指し示した先にある台に座った。

「では、楽にしていてくださいね。」

 男はそう言うと、後ろでこそこそと何やらをいじくりまわしている。その金属音をきいていると、どうにも落ち着かなかった。そのあいだは僅か数秒間であったろうが、僕には途方も無く長い責め苦にあっているように思われた。

 やがて、奇妙なものを携えてにゅっと戻ってきた。

「さあ、楽にしてくださいね。」

 先程とスンブンもたがわぬイントネーションでそう言うと、男は右手から二の腕ほどもある大きな注射器を掲げて、左手で僕の右腕をぎゅっと掴んだ。

ずぶり、という音を発てて、僕の腕は注射器の針を受け入れた。そうすると、みるみるうちに、茶色い液体が注射器の中に溜まっていった。その量が次第に上昇し、ドコまで上がっていくのかしらん、と血を抜かれているのにもかかわらず、人事のようにまじまじとその様子を眺めていると、すっとした感覚が押し寄せてきて、脳が麻痺したようにぼうっとしてきた。それとともに、キーンとした音が、脳の中を埋めていった。

「おっと、──。」

 そういうと、男は一連の行動を止め、僕の左手に握られていた券を引っ張り取った。それをまじまじと確認すると、恍惚に浸っていた僕の顔を覗きこんで、たしなめるように言った。

「だめじゃないか。余分に採取してしまった。ちゃんと、『発狂』から乗り込んだんだっていってくれないと──。てっきり始点の『幼獣』からだと思ったよ。」

 僕は、呆然としながら「はあ、すみません、」と謝った。その謝罪は、あるいは恍惚状態が続くのをどうにも独り占めしていてはならないような気がしたからかもしれない。

ハッハッハ──という、笑い声とともに、男は、大きな注射器をぱちんぱちんと左手に叩きつけた。その度に、中に入っている茶色い液体は、ぐるんぐるんと唸った。

「何も悪気があったわけじゃないよ。」と男は、にっと歯茎を見せるながら言うと、急に眉をひそめて「次からはちゃんと言うんだよ。」とすごみをきかせて引きつった笑いを投げかけてきた。

 僕は、もう一度「はあ、すみません、」と深深と謝ると、いつのまにか開いていた右側の扉から、早早に飛び降りた。

 がたんという音とともに扉が閉まった。僕は、十分と心を落ち着かせてから、漸く解放されたのだ、という安堵を噛み締め、後方の「献血車」を見上げた。その窓には、コップ一杯の茶色い液体をおいしそうにごくりごくりと飲んでいる白衣の男の姿があった。僕の視線に気づくと、男は快活に手を振り、ぷはあ、と甘い息を吐いた。

 僕は、その様子を恨めしそうに眺めた。回収されなかった『発狂』の券をぎゅっと握り締めながら。

 

平成十三年十月二十九日