山水堂
ウンパンシャ
運搬車
私は、オプンテラスで、ゆっくりと珈琲を味わっていた。この世界にも珈琲があるのを半ば戸惑いながら。
普段は人を避けるために、カウンタから遠巻きに座る私が、半歩歩み寄った席で、こうして、カップによどんだ上澄みをすするのも、存外この世界の気に入ったからかもしれない。椅子も机もカップも白いので、黒い珈琲の際たち、何処かしら、崇高な苦味を漂わせていた。
カウンタのテーブルの裏には、でんと構えていた棚があり、綺麗に珈琲カップや皿やらが並べられていた。気がかりなのは、テーブルや、椅子は兎も角、この棚や、カウンタが、雨ざらしになっているということだ。そもそも、この世界には、雨などないのかもしれない。というのも、私は、この世界に来て、一度も、雨の降っているのに遭ったことがない。
カウンタの上には、日めくりのカレンダのような黒板が掲げられている。というのも、そう思ったのは、数字の「二十八」と書かれていたからだ。あまりにも粗雑だから、手書きなのかもしれない。
カウンタの店員は、珈琲を取り扱うだけの店にしては、大仰な格好だった。全身に、きっちりとアイロンの行き届いたエプロンを羽織り、丈の高い白い帽子を被っていた。店員の背は、それほど高くなかったが、顔にはまんべんなく、髭やら、鬢やらで、毛に覆われ、ただ、丸々とした目と、上唇だけが這い出したような特徴を備えていた。その目と口が、しきりに辺りをうかがう様に、左右に動き回るものだから、一体全体、何を期待しているのか知らんと、彼の目線の先を思わず見回してしまった。
と、そこへ、申し合わせたように、白い、ワゴンのような車がやってきた。座席から、身を乗り出すような格好で、運転手が外を眺めていた。驚くべきことに、運転手は、カウンタの店員と見分けが付かないほどの顔の特徴を備えていた。すなわち、顔のいたるところが毛(、)む(、)く(、)じ(、)ゃ(、)ら(、)だった。
車は、ぐんぐんと近づいてきて、カウンタの真横までやってくると、ぴたりと車を停めた。
そうして、まるで、鏡をみているかのように、二人の男が同時に手を挙げて「ヤアヤア」と挨拶をした。
で、挨拶が終わった途端、運転手は、何食わぬ顔で、前を見ると、そのまま、車で走り去ってしまった。
一人残された店員は、さっきまでの落ち着かない表情を一変させて、悠長にカウンタ前に掲げられた黒板をくるりと自分の向きに変えた。で、かつんかつんと音を発てたのち、こちらに掲げられた黒板は、数字の「三十」と書きかえられていた。
店員は、だいぶ落ち着き、にこやかな表情をたたえていた。
私は、席を立ち、店員の元へと向かい、挨拶した。
「ご馳走様です」と言い、財布を出そうとしたら、店員は面目ないという表情をして、両手を大仰に振った。
「お代は、いらないですよ。ただ、挨拶があれば」
それでは、生計が成り立つのか、不安だったものの、ここでの決め事ならば、それに倣う他ない。
「ところで──挨拶というのは、さっきの『ヤア』という掛け声ですか」
「ええ、実にそうです」
「しかして、さっきの運搬車は、一体全体何を運んでいたのでしょうか」
「彼は『数字』を運んでいるんですよ」
「ほう──数字ですか」
なるほど「ヤア」の回数で黒板が加算されたのかもしれない。
「挨拶は、いつも二回ですか」
「ええ『彼は』いつも二回です」
「では、私もそれに倣うことにします」
「ヤア──ヤア」
そう言って、私は、この喫茶店を後にした。
そして、遠巻きに、ふりかえり、カウンタ上の黒板の数字を確認した。
平成十八年十一月八日