山水堂
ツメキリ
爪切り
「夜には爪を切るなって、お袋が言ってたぞ。」
たまたま早く帰ってきたオレは、食事の用意もせずに爪を切り始めた妻に小言をもらした。
「親の死に目にあえないぞ。」
「ええ、今日、あなたがこんなに早く帰ってくると思わなかったもの。」と、言いながら、妻は、止める様子ものなく、「爪切り」でせっせと手もとを手入れしている。
そう言えば、妻が爪を切っているのを見るのは初めてだ。普段は、オレの仕事に出掛けている昼間に切っているのだろう。しかし、どうして今日に限って、こんな時間帯に切っているのだろうか。
「オレが早く帰ってくるのが何だって言うんだ。昼間に切れば良かったじゃないか。オレは、仕事から帰ってきておなかが減っているんだ。爪切りは後にしてくれないか? 」
かちり──妻は、オレの言葉を無視して、続けている。ニ、三枚重ねたティッシュの上に、切り取った爪を丁寧に乗せてゆく。
「おい、好い加減にしろよ。」
「好い加減にしないといけないのは、あなたのほうじゃない? 」
妻は、オレに一瞥もせずに、次の指に取り掛かっている。
「どういうことだ? 」
「あなた、昨日の夜に何処に行っていたか、知ってるわ。一昨日も──その前の日も。」
かちり──爪を切り落として、また、ティッシュの上に集めた。
「おいおい──何のことだ。」
「あなた、結婚する時に言いましたよね。『浮気は絶対にしない』って。浮気をしたら、『針千本を飲んでやる』とも言いましたよね。」
「そんなこと言ったか? ちょっと待て、落ち着けよ。」
かちり──妻の視線は、爪だけに向けられている。
「でもね、針じゃ私の恨みをはらすことが出来ないから、爪にしたのよ。あなたの浮気が発覚した時から、切り取られた爪を集めているの。」
「今、何本目だ? 」
「九百九十九本──で、これで千本。」
かちり──という軽快な音が響いた。
平成十八年九月十九日