ネクタイ

ネクタイ

 帰宅の為に、A県T市の駅内に停留している電車の中で出発を待っていた。

 出発の時間まで待たされるのはよくあることで、有意義に時間をつぶすために、片手には慣例的に本を握り締めていた。読み潰してから、何日が経過しているだろうか。行間に埋まった気だるさに、あくびをかみ殺した。

 「ドアが閉まります、ご注意ください」という電子音に呼応して、出発に対する安堵のため息の漏れた瞬間、けたたましい足音を発ててスーツを着た、四十半ばの男が、勢いよく私と同じ車内に乗り込んできた。

 その様子に苛立ったか否かは定かではないが、車掌のけたたましい笛の合図が響き、すぐに扉が閉まった。

 「車内への駆け込み乗車は、大変危険です──」という車掌のアナウンスに真っ先に該当する男は、しかし、この嫌味にも頓着せずに、ハアハアと肩で息をしながら、周りを見渡していたが、私の横の空席を見つけた途端、寄って来て、何も言わずに、どかと座り込んだ。

 あまりにも唐突のことだったので、私はむっとしたが、しかし、幸いにも、私の予想に反して、男は「酔っ払いの臭味」を漂わせてはいなかった。ただ、非常に苦しそうに顔を赤くして、しきりにネクタイを気にする素振りを見せた。

 苦しくて、緩めるのかしらんと、男の様子を横目で窺っていたが、どうも緩めるというよりは、ネクタイが固く絞まっている状態を確かめているかのようだった。その様子を見ていると、私自身のネクタイがきちんと体裁を保っているのかが気になってしまうほどの念の入れようだった。

 私の視線に気づいたのか、男は、苦しそうにこちらを向いた。

 「やはり、ネクタイが気になります? 」

 急に話しかけられたので、曖昧に返事することしかできなかった。

 が、男は私の動揺に一向に構うことなく話しを続けた。

 「ええ、ええ──。このネクタイ。やはり、気になるんですねえ。このネクタイは、私のものなんですよ。いえ、何を隠そう、私の彼女というべき人がくれたんですがね。」

 そういうと、男は、にたにたと笑みを浮かべたが、急に口を窄めて怪訝な顔つきで話しを捲くし立てた。

 「ナアニ、好意は嬉しいんですよ。男ですからね。ソモソモ貰って嬉しがらないわけなどありません。しかも、彼女、若くて頗る美人でしょう? どうして、こんな私のような人間に対して優しく接してくれるのか判らなかったんですよ。──いやね、嬉しい戸惑いというか。」

 男は、そうやって話しの口火を切ってしまうと、立て続けに話し出した。

 「兎に角、そうして彼女と私が次第に惹かれてゆくのに、さほど時間がかかりませんでした。勿論、私が彼女に対して不満の一つもなかったんですよ。一緒にいるのが、何より楽しいですしね。──ただ、家庭のある私がこのような生活を続けていくのに、一抹の不安があったわけです。そのことをね、今(、)日(、)思わず、口にしてしまったんです。」

 「するとどうでしょう。彼女は今までの温厚な表情を一変して、般若のような険しい顔つきで、私を罵り始めたんです。それはもう、スゴイ有様でした。彼女は、もしかしたら、私のことをペットか何かのようにしか思っていなかったのかもしれません。従順な飼い犬に咬まれた主人の怒りは、果たしてどのように収めればよいのでしょうか。──私は、彼女の形相を見て、酷く動揺してしまいました。兎に角、何とかしなければという一心だったように思います。」

 「ハット気づくと、彼女は私のネクタイを付けていました。アレ、オカシイナア──と、私は首をかしげながら、静かになった彼女の顔を見ました。」

 「するとどうでしょう、目を開き、焦点の合わず、途方にくれた表情を浮かべたまま、ぴくりとも動きません。その様子に耐えられず、視線を逸らすと、私は自分の腕がぐっと握り締められているのに気づきました。で、ふうと力を抜くと、ぴんと伸びていたネクタイの両端がだらしなく垂れ下がりました。」

「すべての合点がいった私は、血の気がさらさらと退いてゆくのが判りました。彼女に巻きついていたネクタイを取ると、首にはうっすらとした線が残っているのが印象的でした。」

 「さて、そうなってしまうと、私はいよいよ自分の置かれている状態が気になりだしました。居た堪れなくなって彼女の部屋を飛び出したのですが──私は、つ(、)い(、)つ(、)い(、)このネクタイを持ってきてしまったのです。」

 といい、男は申し訳なさそうに、ネクタイを更に固く締めた。

 「それがですね──。」と男は苦しそうに息を荒げながら言った。

 「どうも、先ほどから、このネクタイが良く絞まるのです。もしかしたら、彼女が、──アア、彼女が私を呪っているのかしらん。」

 私には、どう見てもこの男自身の手が絞めているようにしか見えなかった。

 「まもなく、××、××です──」という最寄の駅を告げる車掌のアナウンスが遠巻きに聞こえてきたので、私は慌てて立ち上がると、男はそれを制するように呻いた。

 「ア、待って──下さい。アア、苦しい、助けて。助けて──クレ。」

 すがりつこうとする男を半ば強引に押し倒して席を立つと、私は、慌てて開かれたドアから外へと出た。

 外からまじまじと車内の自分の座っていた席を見返すと、男が、まるで、溺れかけた魚のように仰け反って、ネクタイで自分の首を絞めていた。

 私は、その醜態を横目に、ふうとため息をついて、自分のネクタイを緩めつつ、改札へと向かった。

 

平成十八年四月四日