シロイアンシツ

白い暗室

 目を覚ましたときには、そこは、どこかの病棟の真っ白な一室であった。病院の中というのも、確信のあるのではない。只、朦朧とした意識の中で、僕の脳震盪を起こしたのを憶えている。そこから推移すれば、病院にいるのは、満更不思議ではない。が、僕の記憶を信じれば、最後にいたのは、確かに雑多な本に囲まれた自室であった。──

 まず、横向けに寝かされた僕の目に映ったのは、白い菊の華を抱いた白い花瓶であった。僕は、困惑しながら、その華の花びらの狂気を懼れないわけにはいかなかった。何であろう──その花びらの一枚一枚につづられた理念というのは。それらの解釈は、僕の身体を幾度となく揺さぶった。

 重々しい褥をどけて漸く上体を起こすと、僕のように寝かされたものの他に三つ、──まるで屍のように動かなかったのが、この部屋にあるのを見て取れた。それらは、僕のこの体勢から少しも表情を覗うことができなかった。僕は、自分の息を殺しながら、彼らの寝息に耳を立てた。が、微々たる鼓動をも聞き取れなかった。寝息ばかりではない。どのような音も──僕の心臓の音を除いては──この部屋に生じていなかったのに違いない。

 ──この独特なベットの配置、この部屋の独特の雰囲気から、僕はここを病室であろう、と判断したのである。そう思い込んでみると、先程から微かな薬の臭味が僕の鼻を患わせていないでもない。が、気になる点が一つ──全く不思議なことに、この部屋の何処にも窓がないのであった。扉はあるとしても、──殆ど真白い壁と同化していて、漸くその一影を認めることができた程度である。ここが、病室でないのなら、恐らく洒落た牢獄の中であろう。──

 僕の観察心が過剰に周囲に向けられていた頃である──件の扉を叩く音が、二度ばかり、この部屋の中を駆け抜けていった。僕以外の病人は、この驚くべきものの訪問にすら、気にも留めなかったように動かなかった。──寝ているのであろうか。成る程、行儀の良い病人達である。が、ノックに反応して──僅かに菊の華が一枚、不気味な変遷を辿り、床へと吸い込まれていった。

 さて、扉の向こう側にいるのは、一体全体誰かしら──僕は、好奇心と恐怖心の交錯した異様な心境にあったが、扉自体は、何の了承も得ずに無造作に開けられた。で、そこから入ってきたのは、動く度に不気味な音を立てる手押し車と、看護服とも監獄服ともつかぬ衣装を纏った、四十半ば程であろう女であった。

「──さん、お食事です。」

 その女は、僕の顔を見ることもなく近づいてきた。僕は、その女の顔に宿る皺の一本一本に、哀れさを感じずにはいられなかった。そうして、この女の一生に──その形成された性質に、同情に近い侮蔑を与えないわけにはいかなかった。僕のそのような思いの外では、女が、僕の前にテエブルを横たえさせ、その上に茶碗と湯飲みを乗せ、その中に僅かに十数の粒と、水を注いでいた。ふと我に返った僕は、この所為に気分を害せずにはいられなかった。

「失礼ですが、看護婦さん。僕は、今目覚めたばかりなのに、このような薬を『食事』だと言って呑まされるのは、余りに失礼なことではありませんか、」

「あら──」その女は、僕よりも怪訝に顔を歪ませた。──僕よりも眉間に皺を寄せて。「あら、貴方は昨日、あんなにもうれしそうに食べていらしたのに。カルシウムの量が足りなくって? 」

 僕は、今目覚めたのに違いなかった。はて、昨日にはこれらを進んで食べていたというのだろうか。

「それにこれらは薬じゃありませんのよ。とっても健康にいいんですよ。」

「しかし──」僕は、この女の薄ら笑いにも似た唇に嫌悪を感じずにいられなかった。「しかし、このようなものばかり摂取していては、顎が退化してしまうでしょう。顎の運動というのは脳に刺激を与えるのに重要な役割を促すのでしょう。」

「あら、そうでしたっけ。でもそれは、一世代前の常識でしょう。今ではビタミン剤の方が主流ですのよ。」

「しかし、野菜や肉を食べていた方が健康に──」

「肉や野菜ですって、」

 女は夥しい声を張り上げて、大いに驚いた。その時に僕は、女の後ろ側にいる病人の様子をそっと観察したが、確かにぴくりとも動じている様子を見せなかった。

「貴方は、それらを食べていらしたの。貴方はそれらを摂取していたの。じゃあ、血液検査で『ダイオキシン濃度』が相当な値を示したのも、それによるものなのね。お気の毒に、その若さで子供を産めなくなるのなんて、」

「どういうことですか、子供を産めない──って?」

「あら、貴方は何も知らないのね。毎年──ピコグラムの摂取が認められた人は、重傷患者に指定されて『子孫繁栄基準法』に引っかかるのよ。つい二年ばかり前に施行されたばかりじゃない。」

「へえ、そうですか、」僕はもう何も言えなくなってしまった。

「でも安心して。この『寓意病院』では、その点の管理はしっかりとしているのよ。皮膚癌予防のために完全に日光を遮断しているしね。──そうそう、貴方の昨日は話していた臓器交換のことだけど、やっぱり駄目だったわ。」

「臓器交換?」

「ええ、昨日貴方が言っていたじゃない。心臓の鼓動が異常だから取り替えてくれ、ってね。でも、大丈夫。貴方のは、まだ保つって医者の太鼓判を貰ったわ。最近臓器が安くなったでしょ。貴方みたいにちょっとしたことで交換して欲しいって人が絶えないのよ。もう少し自分のを大切にして欲しいですわ。」

 僕は、彼女の言っていることの全てを理解できなかった。僕の昏睡状態の間に、臓器移植の関心が一気に高まったということか。しかし、昨日の僕が臓器を交換して欲しいとでも言ったのか。勿論、僕の幼少の頃より心臓の弱いのは十分と承知している。が、僕以上に心臓の弱っているのは何万人といる筈だ。──僕は、憂鬱に成らざるを得なかった。一体全体どういうことだ。僕は、どうにかして、漸くその意識を支えることができた程度である。ここが、現実でないのなら、恐らく洒落た夢想の中にあろう。──否、そう思いたかった。

「へえ、最近臓器提供者が増えたのですか、」僕は、思わせぶりに女に口裏を合わせた。

「提供者? 貴方は変なふうに呼ぶのですね。提供者と呼ぶよりは提供物でしょう。全く凄いことを考えた人がいるんですね。豚に人の遺伝子を組み込んで人の臓器を創らせるなんて。もっとも、最近の豚は外見も殆ど人のそれと変わらないということですよ。だから、眼球までも移植が可能なんです。クロオンで人を複製してしまうと法に触れますが、豚なら大丈夫ですからね。ここだけの話ですが、移植業界もあれこれと手を打っているそうですよ。何たって、豚の方もダイオキシン汚染の進んでいるんですからね。あら、貴方もそんなことは知っていましたっけ──あ、もう、こんな時間。それじゃ、昨日頼まれた『永久睡眠剤』をここに置いておきますからね。ほんと、貴方もおかしな人ですね。臓器移植を頼みながら、永眠剤を欲しがるなんて。──ま、私には関係ないですがね。じゃ、お大事に。薬は水と一緒に服用して下さいね──。」

 

 ──

 

ぱたんというドアの音の轟いたときに、再び菊の花びらが落ちた。床は、僕の知らない間に十数もの花びらを蓄えていた。僕は、その様子を見ながら、三体の去勢者の安らぎを哀れんだ。

 

平成十一年三月四日